ベトナム戦争といえば、すっかり昔の話となりましたが、日米同盟を考えるうえでは、なおその教訓は生きています。
日本からみたアメリカ観、世界観、さらには中国観が現地の実情とは大きく異なっている場合があることの例証となります。
ベトナム戦争の本質や現実に関して、当時の日本のおおかたのマスコミやいわゆる知識人たちの認識には大きなミスや欠陥があったからです。
この種のミスや欠陥は現在の日本での安全保障をめぐる考察や主張にも通じてきます。
そのへんに焦点をしぼりながら、私自身のベトナム戦争報道の体験を書き始めました。
日米同盟を考えるための連載の一部です。
【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(8)ベトナム戦争と米国
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国道1号線をクアンチ奪回を目指して進む南ベトナム軍の兵士=1972年(AP) |
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1972年5月、北ベトナムの港に機雷を敷設し封鎖するよう命じるニクソン大統領(AP) |
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■古都の住民は米側へ逃げた
「なにかが大きく間違っている?」
ベトナム戦争の本質について初めてはっきりと疑問を感じたのは、古都フエでの住民のなだれのような脱出を目前にみたときだった。
あらゆる車に家財道具を満載した老若男女が南へ、南へと逃げていく。自分自身の日本での理解と現地での実態との断層を突きつけられた初体験だった。
なにしろ「解放勢力」と呼ばれる側の軍隊が、米国に支援された腐敗と弾圧の政権から住民を解き放つために進撃してくるというのに、当の住民たちは必死で米国の側へと逃げるのである。
1972年5月冒頭、私がベトナム戦争の報道を開始してまだ10日ほどだった。
この戦争についての理解は日米同盟への認識にも通じていた。
東京で「ベトナム反戦」や「日米安保粉砕」を叫ぶ一連のデモを報道し、羽田空港で「佐藤訪米阻止」行動の結末をみた私は2年半後、ベトナムに住むようになった。
ベトナム共和国という国名の当時の南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)に駐在する特派員となったのだった。
ベトナム戦争はちょうどそのころまた激しく燃え上がっていた。
72年3月末、北ベトナム(当時のベトナム民主共和国)の大部隊が南北を分ける非武装地帯の北緯17度線を越え、怒濤(どとう)のように南ベトナム領内への進撃を開始した。
南領内の中部高原のコンツム市にも、サイゴン北方カンボジア国境沿いのアンロク市にも、南ベトナム民族解放戦線軍をも含む北軍の激しい攻撃がかけられた。
72年春季大攻勢だった。
米軍が直接、公式に介入を始めた65年以来、最大規模の北ベトナムによる攻撃である。
ベトナムの血みどろの戦闘光景を初めてアメリカの居間に持ち込んだとされた68年のテト攻勢のスケールをはるかに上回っていた。
ただし米国はニクソン大統領がすでに米軍撤退の基本を決めていた。
最大50万にも達した南ベトナム駐留の米軍は約10万にまで減っていた。
地上戦闘部隊はもうゼロに近かった。
ただし米軍機はタイ領内の空軍基地や南シナ海の第7艦隊から連日、南ベトナム軍支援の爆撃を続けていた。
私のベトナム戦争認識は浅薄だった。
日本での新聞報道をなんとなく事実として受け入れていた。
「ベトナムで戦争が続くのは米国の軍事介入とその手先の政権のためであり、南ベトナム国民はみな米軍を敵視し、『解放勢力』を支持している」というのが日本での大多数の認識だった。
日米同盟への姿勢もこのベトナム戦争観に支えられる部分が大きかった。
「米軍はベトナムを侵略している。日本は日米安保条約に基づき、その米軍に後方基地を提供し、ベトナム侵略を支援している。そんな悪への加担を生み出す日米安保、日米同盟は排すべきだ」
ベトナム反戦から日米同盟反対へとつながる理屈の回路はこんなふうだった。
だがまず北ベトナム軍が南ベトナム領内に攻め込むという現地の実態が「米軍対ベトナム人民」という日本での戦争構図を崩していた。
北ベトナム軍は南ベトナム北端のクアンチ省都を攻め、南ベトナム軍を撃破した。
王朝が居を長く置いたフエはそのすぐ南東にある。
北軍は南下の動きをみせ、南ベトナム第2の都市でもあるフエに危機が迫っていた。
新任特派員の私が早速現地に飛ぶことになった。
人口30万ほどとされたフエでは明らかにもう住民の半分以上が南に向けて避難していた。
市内はからっぽの商店や住宅が目立ち、周辺の主要道路はパニックに陥ったようにオートバイから自転車まで動員して逃げ出す住民たちに満ちていた。
サイゴンから同行してくれた女性通訳を通じて、多くの人たちに話を聞いた。
北ベトナム軍を恐れ、憎む言葉が多いことに驚いた。
美しい風景のフオン川のほとりに座っていた高齢の女性に話しかけると、避難をあきらめたという彼女はぽつりと語った。
「ベトナム人がフランス人と戦った戦争はまだ理解できましたが、ベトナム人同士が戦うことはなんとも悲しいです」
こんな言葉も私の内部の戦争の構図を激しく揺さぶったのだった。
(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)
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