2010年06月

 

 

 

 普天間問題に象徴されるように米軍の海外駐留のあり方が日本でも論議の焦点となっています。

 

 米軍はお隣の韓国にも長年、駐留しています。

 

 在韓米軍を撤退しようとしたアメリカの大統領がいます。

 

 その試みはどうなったのか。

 

 以下はそのレポートです。

 

 

ヘッダー情報終了【朝刊 国際】
記事情報開始【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(16)在韓米軍の撤退計画

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1978年2月、弁護士とともにワシントンの下院に姿を見せた朴東宣氏(前列左)=AP

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1976年11月、民主党の大統領候補として米ジョージア州で演説するジミー・カーター氏(AP)

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 ■追及かわす疑惑の人物

 米国議会の公聴会で朴東宣氏の証言ぶりを初めてみたときは、本当にかっこいい人物だと感嘆した。

 

 米側からはトンソン・パクと呼ばれていた朴氏は1977年のそのころ42歳、ライトブルーの高価そうな背広をぴったりと身につけ、キラキラ光る純白のシャツに大きな金時計をちらつかせ、議員や調査官たちの厳しい質問をさらり、ひらりとかわしていくのだった。

 

 「アメリカの議員らへの85万ドルもの資金の提供はあなたが韓国政府の代理人だったからでしょう」

 

 「いえいえ、ぜんぶ自分の資金です。アメリカによくある若者の成功物語なんですよ。必死で働いて築いた財です。議員への支払いは孔子の教えのなかで育った私には名誉なのです」

 

 ああいえば、こういう。

 

 議員たちの追及を流暢(りゅうちょう)な英語で煙に巻いていくのだ。

 

 韓国生まれの朴氏は少年時代に米国に移住し、首都の名門ジョージタウン大学を卒業して、ビジネスで大成功をおさめたという触れ込みだった。

 

 ワシントンの社交界ではスカンディナビア系の美女の恋人とともに議員たちを招いての豪華なパーティー開催で知られていた。

 

 朴氏の名が米国の国政の場で語られるようになったのは76年11月、民主党のジミー・カーター氏が大統領選で共和党現職のジェラルド・フォード氏を破って当選したころである。

 

 その背景には、カーター氏が選挙公約として打ち出した在韓米軍撤退計画が大きな影を広げていた。

 

 在韓米軍の存在は日本の安全保障や日米同盟にも当然、深い関係があった。

 

 私はロサンゼルスでのロッキード事件の嘱託尋問の取材を2カ月以上かけて終えたあと、ワシントン常駐の特派員に任じられていた。

 

 ベトナム駐在を3年半ほど続け、東京でほんの8カ月ほどを過ごしただけで、またアメリカの駐在となることには、私生活に関しての動揺があった。

 

 ベトナム駐在中に父親を病気で亡くし、その死に目にもあえず、母ひとりをまた東京に残すことになるからだった。

 

 兄弟姉妹のない私はいわゆる母ひとり、子ひとりとなっていた。

 

 その母は父のがんが当初から不治と宣告されたことを私には告げず、苦労を重ねていた。

 

 なのにまた息子が長期の海外駐在となるのだ。

 

 振り返ると、日本人のいわゆる国際化は日本の母の献身や犠牲でなされてきたのだとも思う。

 

 その国際化を日本人が外国で活動することだと定義づければ、である。

 

 そんな胸の痛みを覚えながらも、新任地のワシントンでは赴任早々から大統領選挙の取材に追われた。

 

 米国にとってベトナム戦争が終わった直後の選挙戦だったから、外国への軍事介入にはとにかく反対するという民主党リベラル派のカーター氏が人気を集めていた。

 

 ジョージア州知事だったカーター氏は反ワシントンの旗をも高く掲げていた。

 

 相手の共和党フォード氏は現職大統領とはいえ、ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任に追い込まれた後に、副大統領ポストから自動的に昇進した人物だった。

 

 キャンペーン中のテレビ討論会で、フォード候補が「東欧諸国はソ連の影響下にはない」という大失言をして全米有権者をあっといわせた情景も、私は新しく知遇を得た同世代の米国人男女とテレビをみながら、目撃した。

 

 カーター氏が選挙公約として掲げたひとつが在韓米地上軍の撤退計画だった。

 

 当時、韓国には合計4万1千人ほど米軍が駐留し、そのうちの約3万2千人が地上部隊だった。

 

 地上軍の主力は陸軍歩兵師団約1万4千人である。

 

 カーター氏の公約はこの地上部隊を5年以内に全面撤退させ、残る在韓米軍は空軍だけにするという案だった。

 

 その理由は万が一、北朝鮮軍が韓国に侵攻した場合、米地上軍は自動的に戦闘に巻き込まれ、米国自体が全面介入を迫られるため、地上軍を引き揚げて、選択の余地を残そうという趣旨だった。

 

 韓国の朴正煕政権はこの撤退案に激しく反対した。

 

 有事に韓国を防衛することを誓っている同盟国の米国がその防衛の主力を除去するというのだから韓国側にパニックが起きても当然だった。

 

 なんとか米国の政府や議会に働きかけ、この撤退案をひっくり返そうと意図しても当然である。

 

 そのための対米買収工作の中心人物が朴東宣氏らしいという疑惑が表に出たのだった。

 

(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)

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[etoki]1978年2月、弁護士とともにワシントンの下院に姿を見せた朴東宣氏(前列左)=AP[etoki]

 

[etoki]1976年11月、民主党の大統領候補として米ジョージア州で演説するジミー・カーター氏(AP)[etoki]

 

歴史雑誌『歴史通』7月号掲載の古森義久のレポートの紹介を続けます。

 

太平洋戦争中、日本海軍の連合艦隊の山本五十六司令長官が米軍機の待ち伏せでどう撃墜されたのか。

 

 

撃墜した側の米軍パイロットの回想です。

 

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ヘンダーソン基地での作戦会議では山本の日ごろの生活ぶりまでがパイロットたちに知らされた。

 

なかでもモリソン大尉は時間厳守が山本の生活での一種の癖のようだとも強調した。

 

攻撃する側にとっては貴重な情報だった。

 

結局はこの山本の「時間厳守」の習慣が彼の命を奪うことにもなったともいえる。

 

 出撃にはヘンダーソン基地にあるすべてのP38が動員された。

 

 遠隔地での至難な攻撃を果たし、日本機の追撃をかわして帰投しなければならない。

 

 そんな長く険しい飛行には各機とも往路は大きな補助燃料タンクをつけて飛ぶことが必要だった。

 

 増槽と呼ばれたタンクだ。

 

 基地ではその時、十八機のP38が出動可能だった。

 

 その全機が動員されることとなった。

 

 

 

 攻撃部隊の全指揮官には前述のジョン・ミッチェル少佐が選ばれた。

 

 ミッチェルもランフィアと同様、サンフランシスコ近くのハミルトン航空基地で猛訓練を受けた戦闘機乗りである。

 

 ミシシッピー州出身、コロンビア大学卒の学究タイプだったが、太平洋戦争ではすでにめざましい功績をあげ、戦闘機パイロットのエースのひとりに数えられていた。

 

 ガダルカナルの第三三九飛行隊ではランフィアのすぐの上官だった。統率力のすぐれた将校としても評判だった。

 

 だからミッチェル少佐の指揮官任命はだれからもごく当然として受けとめられた。

 

 だがこのミッションの最大の責任はトーマス・ランフィア大尉の肩にかけられた。

 

 出撃十八機のうち、ランフィアをはじめとする四機が山本長官機を直接、攻撃するグループと決まったのである。

 

 ランフィアのほかにレックス・バーバー中尉、ジョー・ムーア中尉、ジム・マクラナハン中尉がその攻撃グループだった。

 

 このグループは日ごろランフィアの指揮下にひとつの編隊として活動してきた。

 

 本来なら四月十八日から休暇に入る一団である。

 

 

 

 だがランフィアはじめこの一群の戦闘機乗りたちは南東太平洋でめざましい戦果を重ねてきたため、特別ミッションにはまっさきに選ばれたのである。

 

 たとえばこの作戦会議のすぐ前の四月七日、ヘンダーソン基地に日本軍の零戦十一機が襲来した。

 

 基地からはランフィアやバーバーら四機が迎撃に舞いあがった。

 

 山本長官の攻撃を命じられたのと同じ四人のパイロットである。

 

 この四機の編隊は零戦と空中戦を演じた末に、七機を撃墜した。そのうち三機まではランフィア自身が撃ち落としていた。この時も彼は銀星章を受けている。

 

 前年の四二年十二月二十六日にはランフィアはガダルカナルの東三百㌔ほどのニュージョージア島にある日本軍基地を空襲した。

 

 やはりバーバーを僚機パイロットとしていた。

 

 この時も地上の日本軍航空機を多数、撃破して、闇の豪雨の中を無事、ヘンダーソン基地へと帰還して、勲功メダルを受けている。

 

 ランフィアがあげた戦果はそのほかにも多く、太平洋戦線の戦闘機パイロットではすでにミッチェル少佐にも勝る評価を築いていた。

 

 当時、優秀なパイロットにとくに必要とされた資質は一体、なんだったのか、と私が尋ねると、ランフィアは「私の場合は遺伝なのです」とまじめな顔で答えた。

 

 「私の父、トーマス・ランフィア・シニアは第一次大戦の花形パイロットでした。米軍航空部隊の生みの親のひとりともされました。かがやかしい戦果に加え、アメリカ大陸横断や北極飛行の新記録を次々につくり、アメリカ中のヒーローだったといっても誇張ではありません。私はそんな父親に育てられ、十三才の時に早くも父と共に空を飛びました。父は当時、ミシガン州にあったアメリカで最大の航空隊の司令官でした。それ以来、飛行機の操縦を父から学び、飛行には慣れ親しんできました。だから陸軍の航空隊に入った時はすでにかなりの技量を持つパイロットだったのです。だから私の当時の実績からみれば山本攻撃の任務をはたすには最適格と判断されても、とくにふしぎではなかったのです」

 

 ランフィアはこんな経歴を決して自慢とは響かない淡々たる口調で語るのだった。

 

 そして自分の欠点をも率直に認めた。

 

「ただ私自身いくら実戦の経験を重ねてもすぐれたパイロットだという意識はなかったのです。出撃のたびにいつもかあっとなって、冷静さを失なってしまうからです。出撃の際は緊張からか恐怖からか、とにかく興奮して冷静さをなくしてしまう。そしてそんな自分に対して『これではお前ダメだぞ』といつも言いきかせるのです。たとえばP38戦闘機には機関銃と20ミリ砲がある。目標や状況に合わせて両方の火器を使いわけねばならないが、私はいざという時はかっと興奮してしまい、20ミリ砲のことをすっかり忘れてしまうのです。山本長官機を攻撃する時もそうだった。機関銃の発射ボタンからちょっと手を離して20ミリ砲のボタンを押せばよいのだけれど、それを思いつく余裕をなくし、機関銃ボタンだけをただ夢中で押しつづけてしまったのです」

 

 パイロットとして冷静沈着ではないと自認するのだ。

 

 よくいえば、勇猛果敢のタイプだったのだろう。

 

 たしかに打てば響くような積極性や闘志は、四十年後の私との会話でも、はっきりとうかがわれた。

 

 「そう、私はたしかに大胆な突撃タイプのパイロットで、時には無謀でさえあった。でもそれは戦闘機乗りとして成功する資質の一部だったとも思います。私自身の性格の反映でもあった。私は親しい友人に『どうもオレは跳び込み台から下のプールに水があるかどうかを確かめる前にダイブする癖がある』と打ち明けたことがある。と彼は『それはまさに適確な評価だな』と言うんです(笑)」

 

山本攻撃のミッションではランフィアらの四機を除く、残りの十四機が援護部隊となった。

 

待ち伏せ空域でランフィアらの攻撃部隊がうまく山本機を襲えるようカバーするわけだ。

 

日本軍の戦闘機を迎撃せねばならないのだ。

 

 カヒリの西五十六㌔の地点で攻撃部隊は高度約三千㍍で山本の一行を待つのに対し、援護部隊は高度六千㍍の上空まであがって待機し、攻撃部隊を阻止しようとする敵機を、上から舞い降りて叩く、という計画だった。

 

 援護部隊のパイロットの残り十三人はミッチェル少佐みずからが選んだ。

 

 有資格者四十人ほどからの選抜だった。

 

 ミッチェルは全部隊の指揮官ではあったが、彼自身はもちろん援護よりも、直接、山本の撃墜をめざす攻撃部隊の先頭に立つことを希望していただろう。

 

 ただそんな不満を彼は少しでも表わしはしなかった。

 

 だがランフィアは同じベテランの戦闘機操縦士としてミッチェルの気持が痛いほどよくわかった。

 

 作戦に参加するパイロットたちは四月十七日の夜、ミッチェル少佐からブリーフィングを受けた。

 

 「目標は日本の連合艦隊司令長官、パールハーバー攻撃の総責任者である」

 

 宿舎のテントから少し離れた野外の闇の中で、小さな灯りに照らし出されたミッチェルは、翌日の作戦計画を詳細に語り出した。

 

 パイロット以外に整備や情報収集の要員たちも、身じろぎもせず聞き入っていた。

 

 ただランフィアらパイロットたちは山本機撃墜の成算にはかなり懐疑的だった。

 

 千㌔以上も離れた二つの地点から別々に飛んでくる二つの編隊が、大海原の上空のどこかでぴたりとうまく遭遇する、などというのは奇跡にひとしいではないか、と考えていた。

 

 だが幸運であれば捕捉できるだろう。

 

 さて出撃の日となった。

 

 一九四三年四月十八日である。

 

 早朝の飛行場では十八機のP38がエンジンの轟音をあげ始めた。

 

 ミッチェル少佐の率いる援護部隊からまず離陸となった。

 

 スチール板を敷きつめた滑走路に乗って、次々と飛び立つ。

 

 そのたびに周辺のサンゴ質の砂がプロペラの風にあおられて薄赤い霧のように広がる。

 

 アメリカ側の時間で午前七時十分だった。

 

 ランフィアはパートナーとなる僚機のバーバーをすぐ横手に見ながら、滑走路を一気に進んだ。

 

「バーバー機をみると、彼がニヤリと笑い、手を振りました。彼の前歯が欠けているのがはっきりとみえました。つい最近、仲間の将校とつまらないことからけんかして殴られ、なくした歯だったのです。彼は私にとってすばらしいウィングマン(僚機パイロット)でした。空中戦でいつも私に劣らぬ手並みをみせていました。そしてなによりもチームワークの大切さを熟知していたとえいます。私にとってバーバーの支援がなければまず命を落としていただろうと思えるミッションが少なくとも二度はありました」

 

 ランフィア機が飛び立った後、同じ攻撃隊四機のうちのジム・マクラナハン中尉のP38が滑走路を疾走するうちに、車輪のタイヤを破裂させてしまった。落伍である。

 

 残るランフィア、バーバー、ムーアの三機が飛行場の上空でゆっくり輪を描いて編隊を組んだ。

 

 そしてミッチェル少佐の編隊に並んで、ガダルカナル島を離れ、青い海原の上空へと舞いあがった。

 

 補助タンクのずしりとした重さが上昇の速度にブレーキをかけていた。

 

 全機とも燃料使用を補助タンクへと切り換えた。

 

 と間もなく、ムーア中尉の機がランフィアの横に近づいてきた。

 

「ムーアは私にジェスチュアで信号を送ってきました。日本軍に発見されないため、無線の交信はすべて厳禁されていたのです。ムーアは補助タンクの燃料がスムーズにエンジンへと流れこまない、と合図していました。正規のタンクの燃料だけでは攻撃を終えて帰投はできません。ムーア機はヘンダーソン基地へともどらざるをえなかった。攻撃隊長の私はあっという間に四機のうち二機を失なってしまったのです。ムーアとマクラナハンの二人までが脱落したからです。私は自機を全編隊の総隊長であるミッチェル少佐機に近づけ、翼を振って信号を送りました。四機で編成した攻撃隊がわずか二機になったことを知らせたのです。ミッチェルは状況をすぐに理解して援護部隊十四機のうちから二機のP38をさいて、攻撃部隊に回してくれました。ベスビー・ホルムス、レイモンド・ハイン両中尉の機でした。私は両中尉と作戦行動を共にしたことはなかったが、二人ともミッチェル少佐の麾下にあって数々の戦果をあげた歴戦の戦闘機乗りであることは知っていました」

 

 この緊急の組み替えで山本長官機を直接、攻撃するのはランフィア以下、バーバー、ホルムス、ハインの四機となった。残る援護部隊は十二機となったわけだ。

 

 十六機のP38は青い海原をなめるように、超低空で飛んだ。

 

 ガダルカナルからカヒリまで日本軍には絶対に発見されてはならなかった。

 

 日本軍は途中のムンダ、レンドバ、ベララベル、ショートランドといった島々に基地を築いている。

 

 米軍機編隊はそのため陸地を離れた洋上へと回る必要があった。ゆるい弧形を描くコースである。

 

 この飛行ルートは片道六百九十㌔、ミッチェル少佐がそのチャートを慎重に決めていた。

 

 飛行スピードは時速三百三十㌔ほど、燃料を長持ちさせるために普段よりはややのろい速度が指示されていた。

 

 日本軍のレーダーを避けるために山本機発見までは一切の無線交信は禁止、しかも水面から十㍍、十七、八㍍といった低空飛行をつづけることとなっていた。

 

 ミッチェル機を先頭に編隊は飛びつづけた。熱帯の空はすっかり晴れ、灼熱の太陽がギラギラと照っていた。

 

 ミッチェル機が方角や高度をほんの少しでも変えるたびに後続の各機はぴたりとその動きに従った。

 

 ランフィアはサンルームのようにむし暑くなったコックピットで操縦桿をしっかりと握っていた。

 

「汗がじっとりと体をぬらしていくのです。水面すれすれの超低空をきっちりと編隊を組んで飛びつづけるにはものすごい集中力が要求されます。だが青一面の大海原と灼けつく陽光に、ともすれば注意が散慢となります。なにしろ視野に入る光景は海と空だけ、なんの変化もないのです。これほど重大な出撃でも飛行の単調さは眠気を誘うほどだった。うっかり居眠りをして水面に突っこまないよう、必死で眠気とたたかいました。いやあ、ふしぎなものです。決死の戦闘が迫っていても、単調で長いフライトは退屈きわまり、睡魔におそわれるのです。実際に体験しないとわからない感覚でしょう」

 

 ランフィアは自分にムチ打つように、これからの戦闘の状況の想定に努めた。

 

 だが山本長官機とばったりぶつかるシーンが現実としてすんなり浮かんでこない。

 

 考えられるのは近くの基地から飛び立ってくる零戦との遭遇ばかりだった。

 

 零戦に発見されずに、目的地までいかに到達するかを考えつづけた。

 

 三十分、一時間、一時間半……P38編隊は南太平洋上をひたすら飛んだ。

 

(つづく)

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【緯度経度】ワシントン・古森義久 JETは日米交流の成功例


 

 私がもう10年近く通う「ジョージタウン大学・ワシントン柔道クラブ」で最も強い米国人選手のひとりはアービン・ブランドンという3段の青年である。首都圏の各種大会ではまず負けることがない。同クラブには東海大学出身の大川康隆、片渕一真などという日本の学生柔道の一線級も長期間、指導にきているが、アービンはこれら強豪にも簡単には投げられず、堂々たる稽古(けいこ)を展開する。

 

 30代前半の彼は職業は本格的な要人警護のSPである。私が新聞記者だと知って、もうだいぶ以前から日本の政治についてよく質問をしてくる。鋭い角度からのきわめて時宜にかなった問いである。しかも日本への親しみや敬意をいっぱいに示して語りかけてくる。

 

 日本になにかかかわりがあるのかと問うと、「JETプログラムの一員でした」という答えが返ってきた。JETとは日本の政府が各地方自治体と協力して、米国などの若い男女を英語教員として招く「語学指導などを行う外国青年招致事業」のことである。アービンはその英語指導助手として1999年からの3年間、岩手県の一関市近くの公立小中学校で英語を教えたのだという。

 

 「岩手の3年間で日本の敬老の精神や他者への寛容、そして調和について学び、黒人である私の祖父母の価値観ともそう異ならないと感じました。日本社会では『出る杭(くい)は打たれる』という暗黙の鉄則もあると聞き、当初は注意したけれど、岩手の人たちは私のような外部からの人間の意見にも耳を傾けてくれました」

 

 ワシントン地区で生まれ育ったアービンは黒人の名門校のハワード大学を卒業してすぐ22歳でJETに応募し、岩手県に送られた。まず気にした人種にからむ反応は「私自身が注目を浴びたことは間違いないが、ネガティブな対応がまるでないのは驚くほどでした」という。そして英語指導のかたわら柔道に励み、他の武道にも接した。

 

 「日本の武士道の精神を自分なりに学び、いまの警護の職務にも生かしています。日本での体験全体が私の人間形成に測りしれないほど役立ちました。最大の教訓は、日米が異なる文化にみえても両国民の人間レベルの核心は驚くほど共通していると実体験したことでしょうか」

 

 米国社会でもいまのアービンは柔道を除けば職業でも、私生活でも、日本からは遠いところにいる。だがいまも日本への温かい思いをためらわずに示すのだ。

 

 実は私は彼のこうした日本観にそれほどびっくりはしなかった。なぜならこれまでに会った多数のJET経験者の米国人男女たちが、ふしぎなほど一様に日本への好意や善意をあらわすのに接していたからだ。要するにJETで日本で2、3年、暮らして帰ってくると、日本が好きになったという人たちがほとんどなのである。その点では日本の対米交流計画ではJETは最大の成功例といえるだろう。

 

 1987年に始まったJETの最大対象は米国だった。いまでは日本が招く若者たちの国の数は36にまで増えたが、これまで滞日した合計約4万4千人のうち約2万5千人が米国人である。そのなかには、ブッシュ政権の国家安全保障会議アジア上級部長となったマイケル・グリーン現ジョージタウン大学教授や、日本政治の研究で知られるレオナード・ショッパ・バージニア大学教授も含まれる。

 

 このプログラムは、日本への善意や親近感だけでなく日本についての知識や理解を唯一の超大国、唯一の同盟国たる米国の内部にしっかりと植えつけてきた。だが日本の民主党の菅政権はいまやこのJETプログラムを廃止すべきだとして、「事業仕分け」の対象にあげたのだという。

 

 いまのJETが確かに拡大しすぎて、焦点がぼけてきたという側面はあるだろう。だがそのすべてが廃止


 

 

 ロッキード事件、とくに田中角栄逮捕の根拠となったロサンゼルスでの嘱託尋問や刑事免責の回顧レポートです。

 

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【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(15)嘱託尋問と刑事免責


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1976年7月、ロサンゼルス地裁に到着し日本人記者団に囲まれるチャントリー氏。その右が筆者(古森)=ロイター

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1976年7月、逮捕され東京拘置所へ移送される田中角栄氏

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 ■同盟への信頼を侵食

 

 ロッキード事件のロサンゼルスでの展開を報道することを唐突に命じられたのは、まず私の自動車運転能力が理由だともいえた。

 

 空港に着いてすぐレンタカーを調達し、広大なロサンゼルス地区に散る取材先を回るには記者自身で車を運転することが不可欠とされたのだ。

 

 英語で取材する一定の能力ももちろん条件だった。

 

 もし私が運転ができなかったら、その後の新聞記者としての進路はまったく異なっただろう。

 

 ロサンゼルス連邦地裁での嘱託尋問はロッキード社のコーチャン前副会長、クラッター前日本支社長、エリオット前同支社員の3人が対象だった。

 

 日本の検察から委託されたチャントリー元同地裁判事が尋問役となった。

 

 3人が自社の旅客機トライスターを全日空に売り込むため日本政府の高官らに不正な資金を払ったことが明確となったため、日本での刑事事件捜査にはその証言を得ることが欠かせなくなったのだ。

 

 嘱託尋問は1976年6月8日に開始されるかにみえたが、コーチャン氏らは尋問を執行するロサンゼルス連邦地裁に異議を申し立てた。

 

 米国憲法上の自己に不利になる証言の拒否の権利などを主張したのだ。

 

 だが同地裁は申し立てを却下する。

 

 証人側は即日、連邦高裁に抗告した。

 

 日本中の耳目がこの嘱託尋問の一進一退に向けられた。

 

 私も現地に着くやいなや、この複雑な動きを必死で追った。

 

 日本のメディアはやる気満々の記者たちを投入していた。

 

 日本式の突撃取材で地裁に出入りする証人たちに質問を浴びせる。

 

 証人や弁護士の自宅にも夜討ち朝駆けとなる。

 

 なにしろだれかがほんの一言、なにか口にしただけでも1面の大記事となるのだ。

 

 私も車を駆り、ベルエア地区の緑豊かなコーチャン邸やサンタモニカの近代風のクラッター邸に押しかけたりした。

 

 だが事件の重みにもかかわらず、夏の陽光下の嘱託尋問のドラマは意外と明るかった。

 

 ひとつには尋問の執行責任者のチャントリー元判事がごく気さくな人物で、日本人記者にもひどく愛想がよかったのだ。

 

 「裁判官は給料を納税者に払わせるから、裁判所での出来事は最大限に国民に知らせる義務があるんだ」

 

 本気だか冗談だか分からないこんなことを述べ、私たちの質問には懇切に応じてくれた。

 

 やがて「これが尋問書だよ」と述べて、分厚い書類をかざし、最初の数ページをめくることまでしたのに、びっくりした。

 

 コーチャン氏は礼儀正しかった。くどい問いかけにも逃げることなく耳を傾ける。

 

 「ノーコメント」という反応が多かったのは当然だが、嘱託尋問が終わったときには日本人記者たちに夫人が用意したという日本のせんべいを贈り、労をねぎらってくれたほどだった。

 

 本番の尋問は6月25日にやっと始まった。

 

 だが証人たちは日本側の免責を求めた。

 

 自分の証言の結果、日本の法律違反が判明しても処罰はされないよう刑事免責措置をとらなければ協力はしない、というのだ。

 

 当然の要求だろう。

 

 だが日本の司法には免責という制度がなかった。

 

 日本の検察は米側の証言は緊急に必要だったから、免責を与えることにはすぐに同意したが、問題はその方法だった。

 

 日本側では、刑法の一部改正が必要かもしれないという議論まで出た。

 

 免責の問題が解決しないまま、尋問だけは進んだが、その解決なしには証言記録が日本側に渡されないというような状況までが生まれた。

 

 この点で7月中旬、私は思わぬ情報を得た。

 

 ロサンゼルス地裁の便所で以前に友人から紹介されていた地裁の関係者にばったり会うと、「当方は日本の最高裁が米側証人を訴追しない旨の意見書を出せば、十分だとみなしている」と、もらしたのだ。

 

 そのことを記事にすると、朝刊の1面トップで大きく掲載された。

 

 だが、スクープだなどと喜んでいるゆとりはなかった。

 

 田中角栄前首相が逮捕されたのだ。

 

 ロッキード社からの不正資金5億円を受け取った容疑だった。

 

 つい1年半前まで総理だった人物の逮捕は、その後の日本を激しく揺さぶり続けることとなる。

 

 「総理の犯罪」の裁判では、私も報じた免責措置の是非が最後まで争点となった。

 

 ロッキード事件は日米同盟への一般の信頼性を侵食する影響もあっただろう。

 

 だが事件の追及が米国側で始まったという事実が、日本側での不信を和らげる効果もあったように思える。

 

 (ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)

 

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 中国の中国中央銀行が人民元のレートの切り上げへと動き始めました。

 

 外観は少なくともそうみえます。

 

  なぜこの時期にあえてそんな動きをとったのか。

 

 中国政府の動きの裏面にはさまざまな思惑がうかがわれます。

 

 この課題の真実を知るには、とくに中国の「人民元レート不当操作」を長年、非難してきたアメリカ側の動向をいままたみることが必要です。

 

 そのへんの状況をアメリカの現実を踏まえて、レポートしました。

 

 JBPRESS(日本ビジネスプレス)の私の連載コラム「国際激流と日本」の掲載記事です。

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 中国政府がついに人民元の切り上げへと動き始めた。

 

「ついに」と書くのは米国や欧州の各国が中国人民元の交換レートが不当に低いと苦情を述べるようになって久しいからである。

 

 中国の中央銀行である中国人民銀行は6月19日、「人民元相場の弾力性を高める」という声明を出した。

 

 それまでの人民元の対ドル固定をやめて、市場の実勢を反映するレートへと切り上げを認めていく、という趣旨の声明として受け取られた。

 

 これを受けて、21日の上海外国為替市場では人民元は1ドル=6.7976元まで上がり、2005年7月以来の最高値を記録した。

 

 しかしこれまで長い年月、欧米からの強い圧力をものともせず、人民元の対ドル固定を堅持してきた中国政府がなぜここにきて、このタイミングで重大な方針の修正へと踏み切ったのだろう。

 

 中国が今後自国通貨の対外レートを実際にどこまで引き上げていくのかも、今回の方針表明の動機によって展望が変わってくる。

制裁措置を取りかねないところまで態度硬化した米国議会

 当然、推測されるのは、26日からカナダで始まるG20(20カ国・地域首脳会議)への対策である。

 

 中国がこの会議で各国からの人民元の切り上げを求める強い声にさらされることは当然視されていた。

 

 中国側はその圧力をかわすために先手を打ったのだとも言えよう。

 

 だが、それよりも大きな要因は米国側での官民の態度硬化のようである。

 

 米国内では最近、中国の人民元切り上げを求める要求が特に高まっていた。

 

 その要求は米国議会では明確に中国に対する経済面での強い圧力から威迫にまで発展していた。

 

 中国がそれでもなお米側の求めに従わない場合は、米国議会は中国に直接の被害を与える制裁措置を取りかねないところまで態度を硬化させていたのである。

 

 しかもその背景には、経済以外の分野での米中関係の冷却という実態が存在する。

 

 こうした米国の強固な姿勢は中国の人民元切り上げの行方を見るうえでも、米中関係全体の展望を考えるうえでも、極めて重要な要素である。

 

 日本にとっても、中国の影響を占ううえで米国の対中姿勢は巨大な要因となる。

中国の通貨レート操作で米国の失業が増加?

 米国議会は中国に対してこの数年一貫して「人民元為替レートが当局の操作により経済実勢から見れば不当に低く抑えられている」と非難してきた。

 

 その非難がこのところ特に強くなったわけだ。

 

 この6月9日に議会で開かれた公聴会でも、大物の上院議員3人が相次いで中国当局に対し人民元切り上げを激しく迫っていた。

 

 議会の政策諮問機関「米中経済安保調査委員会」が開いた「中国とWTO(世界貿易機関)」に関する公聴会だった。

    (つづく)

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以下はJBPRESSの古森義久の「国際激流と日本」をごらんください。アドレスは下記です。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3805

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