2010年06月

 大相撲の親方や力士の野球賭博関与がつぎつぎに明るみに出ています。日本相撲協会が組織としてこの反社会的な犯罪行為にかかわってきたといっても、過言ではないでしょう。

 

 もう現在の組織の下で日本の相撲の腐敗体質を完治させることは不可能に思えます。組織全体が賭博や暴力団とのつながりにどっぷりとつかっていることが明白だからです。

 

 この際、その対策として日本相撲協会の全体の解体を提唱したいです。いまの親方も力士もすべていったん辞めてしまうのです。大相撲もしばらく停止です。日本相撲協会全体を消滅させ、ゼロから再出発させるという案です。

 

 将棋の米長邦雄氏が「同じ日本古来の伝統を受け継ぐ」団体の長として日本相撲協会に対し、朝青龍の問題をも取り上げ、協会理事長に今回の野球賭博の責任をとって「協会理事長は潔く『投了』を」と呼びかけています。

 

 私は米長名人と自分を並列におく意図など毛頭ありませんが、長年の一相撲フアンとして日本の相撲を日本の相撲たらしめるために、この際、「日本相撲協会は潔く投了を」とアピールします。

 

 反社会的な犯罪行為が組織全体を蝕んでいる団体が一部を是正しただけで、存続してよいはずがありません。それこそ日本の伝統に反し、日本国民の期待を踏みにじる行為でしょう。

 

 だからこの際、いまの相撲組織をすべて解体し、ゼロから出直すべきです。大規模な腐敗の露呈は名古屋場所開催の是非などという段階をとっくに越えています。いまの相撲組織をすべて破壊して、日本の国民の視点や価値観に基づく、真の日本の相撲制度を築くべきです。

 

 

NHKの日本時間6月21日午前7時すぎのニュースをみていると、「安重根の遺墨の日本での展示」が報じられていました。

 

安重根といえば1909年10月にハルビン駅で日本の首相を務めた伊藤博文を暗殺した人物です。いかなる目的のためでも、事前に計画を立てて、人間を殺すことは殺人であり、その目的に政治や宗教がからめば、テロ行動とされます。その犯行を働いた人間はテロリストです。

 

しかし韓国では安重根は救国の英雄扱いされています。日本からの独立という韓国側にとっての大義があったのですから、それはそれで、自然でしょう。

 

だが日本側にとって、さらには国際基準からすれば、安重根はあくまで暗殺者であり、テロリストです。自国の首相だった人物を殺した人間と、その殺人行為を礼賛できるはずがありません。

 

             伊藤博文

 

 

しかしNHKのこのニュースは安重根に対し「救国の義士」などという韓国側の礼賛を主体に紹介し、「遺墨」を「大変すばらしい」とする日本側の識者のコメントを伝えています。

 

日本の公共放送局が日本の首相を殺した人間の遺墨をこのように大々的に、しかも礼賛をこめて紹介するということに反発を覚える日本国民は私だけでしょうか。

 

伊藤博文暗殺自体には日韓以外の論者による以下のような見解もあることを紹介しておきます。 

 

<韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである。

エルヴィン・フォン・ベルツ

  歴史雑誌『歴史通』に私が書いたレポートの紹介を続けます。

 

雑誌掲載のタイトルは「我レヤマモト機を撃墜セリ」となっています。

 

 

 

 

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 さて山本長官がこの時期になぜラバウルからブーゲンビルへと南下することになっていたのか。

 

 それは山本みずからが決断し、実行した「い」号作戦のためだった。

 

 その年、つまり一九四三年のはじめ、日本軍はガタルカナルでの血みどろの戦闘に破れ、同島から撤退した。

 

 続いてガタルカナルの西北にあたるソロモン群島や東部ニューギニアの防衛態勢を強化する。

 

 ガタルカナルで死闘を重ねた日本軍第十七軍の司令部はブーゲンビル島へと後退していた。

 

 それまでの日本軍の破竹の進撃が阻まれ、戦局全体が米軍の優位へと大きく転回したわけである。

 

 米軍は勢いを増し、とくに航空力を強化した。

 

 東部ニューギニアや中北部ソロモン群島の日本軍基地への兵力や軍需品の輸送に連日、猛爆を加えるようになった。

 

 その空爆によって日本軍の第一線の防備はがたがたとなってきた。

 

 日本軍はその窮状を打ち破るために米軍の航空戦力を叩くことが急務と判断した。

 

 あわせて日本側の制空権化での輸送のペースを早めることを意図した。

 

 その結果、決められたのが「い」号作戦だったのである。

 

 山本司令長官はこの作戦に持てる航空戦力のほぼすべてをつぎ込んだ。

 

 ブイン、バラレ、ブカ、ラバウルなどの各基地に展開していた日本軍機を動員したのだ。

 

 山本長官はこの作戦の指揮をみずからとるため四月三日にトラックを離れて一路、南下し、ラバウルへと前進した。

 

 作戦名は「いの一番」という威勢のよい言葉からとって、南東太平洋全域での不利な戦局の一挙くつがえしを企図していた。

 

 作戦は四月七日に火ぶたを切った。

 

 日本軍はパールハーバー攻撃以来の大航空兵力、約百八十機を投入して、ガダルカナル島に在泊中のアメリカ艦船や航空機を襲った。

 

 つづいて四月十一日からはニューギニアへとやはり大編隊を飛ばしてポートモレスビーを空襲した。

 

 戦果はまあまあだった。

 

 戦局を大きく変えはしなかったが、将兵の士気はあがった。

 

 山本長官は四月十六日、「い」号作戦の終了を宣した。

 

 そしてこの作戦に加わった前線の部隊を慰め励ますため、バラレやブインの基地巡察を決めたのだった。

 

 ガダルカナルに最も近い最前線の将兵を日帰りで巡視しようという計画だった。

 

 この計画を現地の航空戦隊や守備隊に告げる電報は四月十三日の夕方に発信された。

 

 だがこの巡視が彼の命を奪ったのである。

 

 

 さてここでアメリカ側の記録に目を転じよう。

 

 ハワイにいた太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は、四月十四日、山本長官の最前線視察計画について報告を受けた。

 

 「四月十八日〇六〇〇ラバウル発、〇八〇〇バラレ着、駆潜艇ですぐにバラレを発ちショートランド着、一〇三〇バラレ帰着、一四〇〇ブイン発、一五四〇ラバウル帰投」

 という山本の行動予定を告げる日本側の機密電報の内容である。

 

 時間は日本側の時間だった。

 

 すでに知られているようにアメリカ側はそれまでに日本海軍の暗号電報の解読にすべて成功していた。

 

 ただし暗号を傍受して解読し、作戦の手の内をつかんでいることを日本側に絶対に知らせないために、万全の策を講じようとした。

 

 暗号解読によってアメリカ側がそれまでの作戦をまったく立て直して戦闘にのぞんだという最初の主要なケースが四二年五月の珊瑚海海戦だった。

 

 第二がミッドウェー海戦である。

 

 そしてこの山本長官機への攻撃が第三のケースになろうとしていた。

 

 いずれの場合も、それまでの作戦行動パターンを暗号破りで得た情報によって急遽、変えるのだから、日本側に解読の事実を知られてしまう危険がある。

 

 そのリスクをあえておかしての行動なのである。それはもちろんリスクをおかしてでも得られる成果があまりに大きいからだ。

 

 ニミッツにこの重大な報告を届けたのは太平洋艦隊司令部の諜報将校E・T・レイトン中佐だった。

 

 ニミッツはただちにニューカレドニアにいた機動艦隊司令長官のウィリアム・ハルゼー中将に電報を打ち、山本五十六のこんどの視察ルートのどこかで、ガダルカナル島からの米軍機によって彼に攻撃を加えることができるかどうかを尋ねた。

 

 ハルゼーはガダルカナルのソロモン群島航空部隊司令官ミッチャー少将に同じことを問う。

 

 つまりガダルカナルから遠距離を飛び、ショートランド島、バラレ島にくる山本長官を攻撃し、また帰投することが戦術的に可能かどうかの問い合わせである。

 

 「本官の指揮下にあるガダルカナルの航空機の中では陸軍のP38戦闘機のみがその任務をはたすだけの飛行能力を持っている」

 

 ミッチャーのこの回答はハルゼーからすぐにパールハーバーにいるニミッツに打電された。

 

 ニミッツはこうした方法で敵の海軍の最高司令官を殺すことがはたして妥当かどうか、ワシントンに判断を仰いでもいた。

 

 その質問をまず最初に受けたノックス海軍長官はためらいをみせた。

 

 そして過去の数々の戦争で、敵軍の最高幹部を個別の標的として殺したような実例があるかどうか、ペンタゴンの戦史担当官に命じてこまかに調査させた。

 

 だがそうした前例は見当たらなかった。

 

 その間、海軍省の高級参謀たちはこぞってノックス長官に「イエス」の決定を下すことを激しく迫った。

 

 と同時に、海軍長官の意見の是非にかかわらず、問題は大統領の判断にゆだねられるべきだと主張した。

 

 この結果、山本への攻撃を実行するかどうかはルーズベルト大統領の裁断するところとなった。

 

 ルーズベルトはこの件の報告を南部ジョージア州に向かう専用列車の中で受けている。

 

 大統領の下した決定は「ゴー」だった。

 

 四三年四月十七日、ヘンダーソン基地のソロモン群島航空部隊司令官の指揮所では白熱した討議が始まった。

 

 ミッチャー将軍の参謀コンドン少佐らは、P38使用という大前提から山本攻撃の指揮官は第三三九戦闘飛行隊のジョン・ミッチェル少佐にすることを決めていた。

 

 同飛行隊はP38を抱え、これまでずっと同機の編隊での出撃を重ねていたからだ。

 

 ランフィアが語る。

 

 「私は第三三九飛行隊でミッチェル少佐と交互に指揮官の役をはたしていました。この重大命令が飛びこんできた四月十七日は、ちょうどそれまでの指揮官勤務の番をミッチェル少佐に譲ったところでした。私は自分の指揮下のパイロットたちとともに休息し、その間、少佐のグループが出動する予定でした。ところが私は作戦参加を命じられ、しかも山本長官への直接の攻撃に当たるという大任が与えられたのです。それにはいくつかの理由がありました」

 

 

 

 米軍の情報では、山本長官と司令部スタッフの一行には零戦六機の護衛がつくことはわかっていたが、山本らがどんな機種の飛行機何機に分乗してくるのかは明らかでなかった。

 

 作戦会議ではまず山本を空で撃つか海で撃つかをめぐり、激論が交わされた。

 

 ラバウルからバラレに向かって飛ぶ長官機を攻撃するか、それともバラレに着いてから山本が乗る駆潜艇を撃つか、である。

 

 米側の海軍の参謀将校たちははじめ海上攻撃を強硬に主張した。

 

 山本が駆潜艇に乗り、ショートランド島の水上飛行機基地の港に入るところを空から襲撃せよ、というのだ。

 

 ランフィアを攻撃部隊に入れることを最初に叫んだのも、実はこの〝海上攻撃派〟だった。

 

 というのはランフィアはこの作戦会議の二十日ほど前、山本が駆潜艇で訪れる予定のショートランド島のまさにその港を攻撃して、はなばなしい戦果をあげていたからだった。

 

 四三年三月二十九日、ランフィアはP38の編隊を率いてヘンダーソン飛行場から出撃し、ショートランド島の日本軍水上飛行機基地を襲った。

 

 そして日本軍の激しい対空砲火にもかかわらず、日本側の水上飛行機六機を破壊した。

 

ランフィアが語る。

 

 「この点は皮肉でした。当時、日本軍の海上や地上の艦艇を攻撃する点では私への信頼がものすごく高かったのです。ショートランド島の基地の日本軍の水上飛行機を破壊しての帰途、同じ島の近くの海上で日本軍の小駆逐艦を発見しました。その艦に波状攻撃をかけて沈没させたのです。帰投してその旨を報告すると、ヘンダーソン基地の海軍の将校たちははじめ信じようとしないのです。戦闘機が駆逐艦を撃沈することは技術的にできないというのが当時の常識だったからです。でも私はその常識を破ってみせた。しかし信じてもらえない。ところが幸運なことに、戦闘現場近くにたまたまB24偵察機がいて、私たちの攻撃の状況を写真にとっていたのです。その結果、駆逐艦撃沈の戦果も確認されました」

 

ランフィアはこの功で陸軍から銀星章を受けたのだった。

 

 だからランフィアは山本長官を撃つ作戦ではとにかく必要なパイロットとされたのだ。

 

 作戦地域を熟知しているうえ海上艦艇の攻撃の技量がすばらしいと判定されていたわけである。

 

 翌日から彼が休暇の予定になっていようがいまいが、とにかくこの作戦には絶対必要な優秀パイロットの折り紙をはられていたのだ。

 

 ところがランフィア自身は山本が地上あるいは海上に着いてから攻撃をかけるという案には反対だった。

 

 「私は海上攻撃のアイディアには絶対反対でした。まず白昼、日本軍基地のすぐそばに行けば当然、零戦が多数、襲いかかってくる。対空砲火も激しいでしょう。それに山本の乗った駆潜艇を他の艦艇からどう識別するか。たとえ識別しても撃沈できるかどうか。あまり長い時間は攻撃をつづけられない。たとえ撃沈できても、山本長官は泳いで難を逃がれるかも知れない。まさか彼がカナヅチであるはずがないでしょう(笑)。だから私は空中攻撃を主張しました」

 

 ランフィアが海上の目標を攻撃する成果を認められながらも、その海上攻撃には反対をしたことが皮肉だったのである。

 

 しかし空中での攻撃にも、とてつもない障壁があった。

 

 ガダルカナルとラバウルの距離は千二百キロほどもある。

 

 そんな遠距離から飛び立ってくる敵機を正反対の方向から飛んで、途中の空中の一点で捕捉する。

 

 しかも周辺の敵部隊にさとられず、にだ。

 

 山本の乗る機種は確定されていないが、おそらく足が長くて速い中型攻撃機だろう。

 

 とすればそのスピードは一分間に六・五キロにもなる。

 

 そんな速度で飛んでくる敵機を広大な南太平洋上のどこかで着実にとらえて、攻撃を仕掛けねばならない。

 

 しかも正反対の方向から飛んでの捕捉というのは最も難しいアングルである。

 

 敵の高度さえ確実にはわからないのだった。

 

 だが最終的にはこの空中での捕捉による攻撃という方法が選ばれた。

  (つづく)

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  第二次大戦中、日本海軍の連合艦隊司令長官だった山本五十六提督機の撃墜ミッションの攻撃部隊指揮官だった人物にインタビューした記録を基に、山本機攻撃の実態を書きました。

 

 私自身がこの元米軍パイロットに長時間、話を聞いた結果です。このレポートは歴史雑誌の『歴史通』の最新号に掲載されました。

 

 「我レヤマモト機を撃墜セリ」というタイトルです。

 

 その最初の部分を以下に紹介します。

 

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―山本機を攻撃したパイロットが初めて日本側に語った全証言

 

                            古森義久

 

 

 連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将が戦死したのは、一九四三年(昭和十八年)の四月十八日だった。

 

 南太平洋のブーゲンビル、雲ひとつなく晴れあがった日曜日の朝であった。

 

 山本長官を乗せた一式陸上攻撃機はブーゲンビル島近くの上空で、アメリカ軍P38戦闘機の編隊に襲われた。

 

 周到な待ち伏せ攻撃だった。

 

 ごく短時間ながらも凄絶な空中戦が展開されて、長官機は炎に包まれながらジャングルへ墜ちていった。

 

 巨星墜つ――と評されたように、山本五十六の死は当時の日本にとって国の根底をゆさぶられる一大衝撃だった。

 

 太平洋戦争の転機を最もドラマティックな形で印す出来事でもあった。

 

 山本五十六長官の死から六十七年――

 

 二〇一〇年春のアメリカでは太平洋戦争がまたまた新たな話題となった。

 

 人気俳優のトム・ハンクスが『ザ・パシフィック(太平洋)』という題の日米戦争映画を制作したことが原因の一つだった。

 

 映画チャンネルのテレビ、HBOで十週間連続のミニシリーズとして三月なかばから放映されたこの作品は太平洋での日米両軍の激戦をドキュメンタリー・ドラマとして描いていた。

 

 この太平洋での戦争の歴史は日米両国で永遠に語り継がれるだろうが、そのなかでの主要人物の一人は山本五十六である。

 

 日米両国で伝説のようにみなされたこの日本海軍の提督は戦争の最中に壮絶な死をとげた。

 

 では山本五十六はどのように死んだのだろうか。

 

 私は山本五十六撃墜ミッションの編隊指揮官となり、山本機に実際に銃撃を浴びせたというアメリカ側の人物に詳しく話を聞いたことがある。

 

 半日以上を費やしてのインタビューだった。P38戦闘機のパイロットだったトーマス・ランフィア・Jr(ジュニア)である。

 

 ランフィアはその作戦当時、アメリカ陸軍航空部隊所属の大尉であり、南太平洋戦線ではそれまでにもいくつものはなばなしい戦果をあげていた。

 

トーマス・ランフィアに会ったのは一九八三年春だった。

 

当時の私は毎日新聞の記者だった。

 

ワシントン駐在の特派員を六年ほど務めた後、東京で政治記者となっていたが、日系米人についての特別の連載記事のためにアメリカ各地を回っていた。

 

その途中でかねて連絡をとりあっていたランフィアにインタビューを求め、それが実現したのだった。

 

私はその時点ですでにランフィアを「山本五十六を撃った米軍パイロット」として知っていた。

 

全米でも有名な人物だったのだ。

 

ガダルカナル戦線での若きランフィアの写真をも米軍の古い刊行物で見ていた。

 

軍服を脱いだ彼の裸の上半身は、学生時代フットボールのクォーターバックとして鍛え抜いたというだけあって、ひとつひとつの筋肉がはっきり見分けられるほどひき締まっていた。

 

窪んだ頬、濃く迫った眉、真正面をぐっとにらみつける大きな眼。まさに精悍そのものの戦闘機乗りだった。

 

 会う前に何度か電話で話した。

 

 彼はまじめな質問にならなんでも納得のいくまで答える、と言っていた。

 

 私がいざ出かけると、彼はサンディエゴの空港まで自分で車を運転して迎えにきてくれた。

 

 「私がトム・ランフィアです」

 

 こちらの手が痛くなるほど強い握手だった。

 

 だがその人物にガダルカナルでの写真の面影を発見するのは難しかった。

 

 四十年の歳月が流れ、六十七歳となったランフィアは体型もゆったりとして、温厚な実業家といった円満な風貌になっていた。

 

 インタビューの場として招かれた彼の自宅はカリフォルニアの基準ではわりに小さなアパートだった。

 

 夫人とのふたり暮しだという。もうみな成人して独立しているという娘たちやその家族の写真がそこここに飾られていた。

 

 ランフィアは一九八三年のそのころ、山本長官撃墜をはじめとする太平洋戦争での体験を中心に、自分の一生をまとめた本を執筆中だった。

 

 部屋のすみのデスクには資料が積まれ、古いタイプライターがおかれていた。

 

 私の質問にもそうした資料を時折、繰りながら答えた。

 

ランフィアは、それでも五十代としか思えないきびきびした挙措だった。

 

打てばひびくような応答で長い時間、インタビューに応じた。

 

そして当時の作戦の模様だけでなく、山本機攻撃の任務を与えられたことへの個人的心情をも綿々と語りつづけた。

 

 ランフィアの飾り気のない述懐は、山本五十六という人物の軌跡にアメリカ側からのユニークな光を当てることともなった。

 

 ランフィアはまず自分自身の日本との戦いの始まりについて語った。

 

 彼は名門のスタンフォード大学を日米戦争の始まる年のはじめに卒業し、軍隊に志願していた。

 

「日本軍がパールハーバーに奇襲をかけた一九四一年十二月七日(日本時間では十二月八日)、私はアメリカ陸軍航空隊の第七〇戦闘飛行隊に所属し、サンフランシスコ近くのハミルトン基地に駐在していました。すでに戦闘機パイロットとしての猛烈な訓練を日夜、続けていました。日本軍のスニーク・アタック(だまし打ち攻撃)を知り、激しい戦意を燃え上がらせました。そして開戦後まもなく、第七〇戦闘飛行隊は太平洋のフィジー島へと送られたのです。そこでも猛訓練の日々でした。そのころ使っていたのはP39戦闘機でした」

 

日米開戦からちょうど一年が過ぎた一九四二年十二月、ランフィアの部隊は激戦の地ガタルカナル島へと派遣された。

 

米軍は同年八月に同島への上陸作戦を開始していた。

 

南太平洋全域での米軍の本格的反攻の始まりだった。

 

「私たちの戦闘飛行隊はガダルカナルに着いてから新しい戦闘機P38を与えられました。この戦闘機はライトニング(雷光)という呼称でした。速度、上昇能力、装備火器などすべての面でそれまでのP39よりもずっとすぐれていたのです。とくに五〇口径の機関銃四基と二〇ミリ砲一門の火力は群を抜いていました。山本五十六機を撃墜するのも結局、このP38戦闘機となるのです」

 

第七〇戦闘飛行隊は、このころまでヘンリー・ビセリオ大尉によって指揮されていた。

 

ビセリオは南部出身の、長身で寡黙なパイロットだった。

 

ランフィアはこのビセリオとずっと行動を共にすることとなる。

 

 トーマス・ランフィア大尉が山本長官襲撃の任務を告げられたのは、一九四三年四月十七日だった。

 

 この時すでに少佐になっていたビセリオに指示され、マーク・ミッチャー海軍少将の指揮所に出頭した。

 

 ミッチャー少将はアメリカ南太平洋軍のソロモン群島航空部隊司令官である。

 

 舞台はガダルカナル島のヘンダーソン航空基地だった。

 

 ビセリオ少佐は「なにかおもしろいミッションらしいぞ」と言うだけでなにも明かさず、ランフィアは一体なんだろうといぶかった。

 

 彼の部隊のパイロットたちはみな翌十八日から待望の休暇に入り、オーストラリアに遊びに行くことになっていた。

 

 「ヘンダーソン基地のミッチャー少将の大きなテントに入ったとたん、びっくりしました。ふだん同時に集まることのない重要な上官たちがずらりと並んでいたからです。ミッチャー少将とその全スタッフだけでなく、フランク・ハリス海兵隊少将、S・C・リング海軍中佐、エド・ピュー陸軍中佐、ジョン・コンドン海兵隊少佐など、その地域の航空部隊の首脳二十数人がずらりと控えていたのです。私は身を引き締めました」

 

 この時までにランフィアの第七〇戦闘飛行隊は、第三三九戦闘飛行隊へと併合された形になっていた。

 

 第三三九戦闘飛行隊からはランフィアと親交の深いジョン・ミッチェル少佐もテントへ参集していた。

 

 ミッチャー少将が簡単にあいさつした後、作戦担当参謀のコンドン少佐がランフィアやミッチェルに青い用紙に打たれた電文をみせた。

 

 青の用紙は海軍のトップ・シークレットに使われていた。

 

 山本連合艦隊司令長官が部隊巡視のため四月十八日朝、ブーゲンビル島近くのバラレ島に到着する。

 

 山本はニューブリテン島のラバウルから南東へ五百四十㌔ほどのバラレまで飛び、バラレの飛行場に午前九時四十五分(日本側時間午前七時四十五分)ごろに着く予定となっている。護衛は零戦六機。バラレ着陸後は駆潜艇でショートランドの水上飛行機基地まで向かう。いかなる代価を払ってもこの標的に肉薄し、破壊せよ。大統領もこの作戦をきわめて重視している――ざっとこんな内容が書かれ、最後にはフランク・ノックス海軍長官の名が記されていた。

 

ランフィアはそのときの思いを語った。

 

 「この電文の内容を知り、当然ながら、たいへんなことだと感じました。超重要なミッションです。とくにイソロク・ヤマモトを撃つという作戦には体がしびれる思いでした。彼の名はパールハーバーへの奇襲のすぐ後から私の胸に刻まれていたからです。あの卑劣な、だまし打ち攻撃を計画し、実行した日本の連合艦隊司令長官のヤマモトこそ、敵のナンバーワンであり、彼の攻撃に断固として反撃するためにはどんな任務にも就くぞと心に誓っていたのです。翌日からの休暇で楽しみにしていたオーストラリア行きも、すぐに忘れました」

 

当時のアメリカ国民は山本をパールハーバーへの〝だまし打ち〟の総責任者とみなし、激しい敵意を燃やしていた。

 

日本側がワシントンで対米和平交渉にのぞみながら、外交交渉打ち切りの通告文書を手渡す前にハワイを奇襲攻撃したことは、ルーズベルト大統領に「汚辱の日」というあの有名な言葉を叫ばせた。

 

全アメリカに日本への激しい怒りをわき起こしたのだ。

 

その怒りが直接ぶつけられたのが、〝スニーク・アタック〟を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六だったわけである。

 

 当時のアメリカ国民が山本への敵意と憎悪を燃やした理由は他にもあった。

 

 山本五十六によるとされた「ホワイトハウスで降伏要求を」という声明がその理由だった。

 

 発端は日米開戦の十か月ほど前、山本が知人に送った書簡の記述である。

 

 「……しかし日米開戦に至らば、己が目ざすところもとよりグアム、フィリピンに非ず。はたまた布哇(ハワイ)、桑港(サンフランシスコ)に非ず。実に華府(ワシントン)街頭白亜館上の盟ならざるべからず。当路の為政家はたしてこの本腰の覚悟と自信ありや……」

 

 アメリカを相手に万一、戦争をする場合、フィリピンとかハワイを攻める程度ではすまない。ワシントンにまで乗りこむつもりがなければ戦争をすべきではない。日本の指導層は対米開戦ということをもっと軽く考えすぎているのではないか――といった趣旨だった。

 

 だからアメリカ相手の戦争などできない、という山本の持論を述べた書簡だった。

 

 ところがこの書簡が後に「当路の為政家はたしてこの本腰の覚悟と自信ありや」という肝心の文章を削って公表されてしまった。日本の通信社が外国向けにそのように報じたため、アメリカでは「ホワイトハウスで大統領に降伏の条約を結ばせてみせる」という意味で広く伝わった。

 

 山本は「アメリカ撃つべし」の主戦派ナンバーワンとして多くのアメリカ人から敵視されるようになったのである。

 

 「そんなことを豪語するとは、なんと傲慢な奴だと当時、思っていました」と、ランフィアが回想したように、これも日米間の深刻なコミュニケーション・ギャップだったともいえるだろう。

 

 ただしランフィアはその後、山本に対する考えを大きく変えることになる。

 

(つづく)

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 拉致被害者を「救う会」の西岡力氏が菅首相の日本人拉致事件や北朝鮮の対日工作への対応について注視すべき一文を発表しました。

 以下に紹介します。

 

 

【正論】東京基督教大学教授・西岡力 拉致対応にみる菅首相の二面性


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 菅直人総理は所信表明で北朝鮮の拉致について「国の責任において、すべての拉致被害者の一刻も早い帰国に向けて全力を尽くす」と述べた。
 しかし、総理の過去の北に対する取り組みからは、二つの相反する評価をすべき事例が思い浮かぶ。
 それを記して、改めて新政権の対北姿勢を問いたい。

 ≪拉致問題のタブー化に影響≫

 まず、国会の代表質問にもあったが、菅総理が1989(平成元)年、拉致実行犯の釈放を求める韓国大統領宛の「要望書」に署名したことだ。

 

 同年7月14日付で、当時の盧泰愚韓国大統領に提出された要望書は、拉致実行犯の辛光洙(シン・ガンス)を含む29人について「日本における合法的な生活、交友の中の一言動を理由として罪に問われている」と無罪を主張していた。

 

 署名した国会議員は、村山富市元総理、土井たか子元衆院議長らを含む133人だった。

 

 大阪の中華料理店のコックをしていた原敕晁(ただあき)さんは1980年、宮崎県青島海岸から辛を含む北朝鮮工作員らにより拉致された。

 

 辛は原さんに成りすまして日本旅券をとり、85年韓国に入国して逮捕された。

 

 88年3月、参院予算委員会で故梶山静六・国家公安委員長が、原さんを含む8人の被害者を取り上げて「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚である」という歴史的答弁を行った。

 

 菅総理は署名について、リストを確認せず不注意だったと詫びている。

 

 当時、拉致問題をめぐってはタブーが存在した。

 

 梶山答弁を朝日、読売、毎日各紙、NHKなどの主要メディアは一切報じなかった。

 

 要望書提出の翌年である1990年、金日成(当時の主席)と会談した金丸信自民党元副総裁も拉致に言及しなかった。

 

 ≪民主党工作を強める金政権≫

 筆者は91年の『諸君!』誌で拉致問題について論文を書いたものの、政界や言論界からは無視された。

 

 一方で、公安関係者らからは「身の危険はないか」と囁かれた。

 

 当時の雰囲気をわかってもらえるだろうが、強調したいのは国会議員の「不注意さ」を利用する勢力がいまも懸命に活動を続けていることだ。

 

 北朝鮮にとって辛は時限爆弾のような存在だった。

 

 原さんだけでなく、地村保志・富貴恵さんと横田めぐみさん拉致の実行犯、曽我ひとみさんの教育係でもあったからだ。

 

 辛は原さん拉致については自白したが、地村夫婦と横田さん、曽我さんについては自白せず無期懲役で韓国刑務所に収監された。

 

 北朝鮮からすればなんとしても辛の身柄を確保したかった。

 

 そのための工作の一つが日本国会議員の署名集めだった。

 

 その後も執拗(しつよう)に努力を続け、2000年6月、金正日総書記が直接、金大中大統領との首脳会談で辛を含む元北朝鮮工作員らの送還を要求した。

 

 筆者は家族会の横田めぐみさんの両親らと韓国大使館に出向き、拉致実行犯を北朝鮮に送らず日本に送れと要求した。

 

 しかし、河野洋平外相らはまったく動かず同年9月、辛は北朝鮮に送られ英雄として称(たた)えられた。

 

 地村夫婦と横田さん、曽我さん拉致について秘密を守り抜いたことが高く評価されたのだ。

 

 日本政府と菅総理を含む国会議員らが隠蔽(いんぺい)工作に乗らず、自国民を守るために行動していれば、拉致に関する決定的証言を1980年代か90年代に取れた可能性がある。

 

 現在の金正日政権は昨年7月以降、朝鮮総連に対し、「民主党政権への政治工作を強めて拉致問題を棚上げにした形での制裁解除と国交正常化の雰囲気作りをせよ」との指令を下した。

 

 菅総理は拉致問題対策本部長に就任した現時点で、北朝鮮の対日工作に一度乗ってしまった「不注意さ」をあらためて猛省してほしい。

 

 ≪一党独裁反対発言は評価≫

 しかし、菅総理を見直した言動もある。

 

 2003年10月、北朝鮮中央通信から「われわれの最高首脳部(金正日総書記)を冒涜(ぼうとく)した」と非難された。

 

 これは当時、民主党代表だった菅総理が大阪での街頭演説で「(イラクの)フセインやスターリンの銅像が倒れた歴史の中で、いつの日か、北朝鮮のあの大きな銅像も倒れる日がくると確信している。できることなら、北朝鮮の民衆自らの手でやってほしい」と述べたことによる。

 

 一党独裁に反対する社会民主主義者として、社会党を脱党した江田三郎氏らに合流して政治家となった菅総理の思想的原点を示す発言だろう。

 

 この原点を忘れることなく、金正日政権に対して毅然たる姿勢を貫いてほしいのだ。

 

 菅総理は就任3日目の10日、炎天下に集まった千人のデモ隊の代表として官邸を訪れた飯塚繁雄家族会代表らと面会し、「韓国の哨戒艦沈没の原因が北朝鮮によるものと判明し、改めて韓国と連携し、拉致問題を含めて解決していく。今後は、北朝鮮に対する圧力を強めていく方向であり、さらなる制裁措置を強める状況である」と述べた。

 

 菅総理が、拉致を理由に明示した制裁強化・送金と渡航の全面停止に踏み切れるかに注目したい。(にしおか つとむ)

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