2010年06月

  菅直人首相のこれまでの過激な政治軌跡が少しずつ浮上してきました。

 

  菅氏がすでに副首相、財務大臣になったあとに、「沖縄は独立したほうがうよい」とか、「沖縄の基地問題はどうにもならない」と語っていたというのです。

 

 この菅氏の「沖縄独立発言」を公表したのは菅氏と同じ民主党の参議院議員の喜納昌吉氏です。 

 

 その菅発言の内容を詳しく紹介したサイトの報道を以下にコピーしました。

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 菅直人首相が2009年9月の政権交代後、沖縄の米軍普天間基地移設問題について周囲に「沖縄基地問題はどうにもならない」「沖縄は独立したほうがいい」という旨の発言をしていたと、喜納昌吉参院議員が自著の中で明らかにした。本当にそう発言したのかは不明だが、新聞で報じられるなど、大きな波紋を呼んでいる。

   2010年6月1日、民主党沖縄県連の喜納昌吉参院議員(62)の著書『沖縄の自己決定権 地球の涙に虹がかかるまで』(未來社)が発売された。7月の参院選に比例代表で出馬する喜納氏が、自身のこれまでの歩みと政治信条をインタビュー形式で語った本だ。

「もう沖縄は独立したほうがいいよ」

喜納昌吉参院議員の『沖縄の自己決定権』。
喜納昌吉参院議員の『沖縄の自己決定権』。
 

   その中の「沖縄の自立に向けて」という章に、09年9月の政権交代後、当時副総理だった菅氏に会った際、米軍普天間基地移設問題について話し合った内容が書かれている。

   喜納氏が「沖縄問題よろしくね」と言ったところ、菅氏は「沖縄問題は重くてどうしようもない。基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」と発言。最後には、「もう沖縄は独立したほうがいいよ」とまで言ったという。

   以前から沖縄独立を提唱していた喜納氏はこれに「あ、菅さん、ありがとう!」と返したというが、著書の中で「半分ジョークにしろ、そういうことをいま副総理でもある、財務大臣でもある、将来首相になる可能性もある彼が言ったということ、これは大きいよ。非公式だったとしても重い」としている。

 

 

「沖縄の自立、独立を国民的に議論する時期」

   首相がかつて普天間問題に匙を投げ、沖縄独立を推奨するような言葉を漏らしていたということで、喜納氏のこの証言を2010年6月16日までに新聞数紙が報道。産経新聞は23日に首相が沖縄訪問を予定していることに触れ、「就任前とはいえ、国土・国民の分離を主張していたことは大きな波紋を呼びそうだ」とした。これを受けて同日午後、喜納氏はツイッターに

「菅さんは総理に就任して決定権を持った。菅さんなら、沖縄県民が望む未来像を描いてくれるかもしれない。一国ニ制度も含めて、沖縄の自立、独立を国民的に議論する時期がきたのだと思う」

と投稿している。

   もっとも、菅首相が本当にこのように言ったかは不明だ。仙谷由人官房長官は16日の会見で喜納氏の証言について「著作を読んでいない。検証のしようがない伝聞証言は刑事訴訟法でいえば証拠能力がないということ」と慎重に発言。菅首相に事実確認するかどうかも「今のところない」としている。

 

   『沖縄の自己決定権』には、喜納氏が03~4年頃に、民主党の小沢一郎前幹事長に「いつか沖縄が独立したいと思えば独立させてくれますか」と聞いた場面も出てくる。小沢氏は「沖縄民族が独立したいと思うなら、ほんとうに歩けるような道筋を作ってからなら独立してもいい、それも考えてみよう」と回答したという。

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 菅直人首相がかつて日本人を拉致した北朝鮮工作員らの釈放を嘆願していたことを首相として自ら認め、謝りました。
 
 先のエントリーの続報です。
 
 謝って済むのかどうかは別にして、まず基本の事実を総理みずから公式の場で認めたことは大きいといえましょう。
 
 
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首相 拉致実行犯の嘆願書署名を謝罪
2010年06月15日 産経新聞 東京朝刊 総合・内政面


 

 菅直人首相は14日の衆院本会議で、過去に北朝鮮による拉致事件の実行犯、辛光洙(シンガンス)元死刑囚の嘆願書に署名したことについて「対象の中に辛光洙が入っていたことを十二分に確かめずに署名したことは間違いだった。従来から反省している」と述べた。首相が就任後に嘆願書への署名を謝罪したのは初めて。菅原一秀氏(自民)への答弁。
 
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私の連載の紹介です。

 

【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(14)ロッキード事件


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1976年3月、国会でのロッキード事件の証人喚問で証言する丸紅の檜山広氏

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ロッキード社の副会長だったコーチャン氏。同社の対日売り込み工作を明らかにした(共同)

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 ■安保のきずなの暗部で

 米国のロサンゼルス市中心部の丘の上に立つと、初夏の陽光がまぶしかった。

 

 周囲には明るく雄大な南カリフォルニアの風景があった。

 

 私はベトナム戦争の最後をみて、その後の容赦ない共産主義革命を体験し、東京に戻ってまだ8カ月ほどしか過ぎていなかった。

 

 1976年6月のことである。

 

 目の前に高層の裁判所ビルがそびえていた。

 

 ビルの内部にあるロサンゼルス連邦地方裁判所で開かれる日本のロッキード事件の嘱託尋問の進行を報道することが私の任務だった。

 

 予期しない唐突な米国急派だった。

 

 ベトナムから帰った私は当時、所属した毎日新聞の外信部での勤務に就いた。

 

 ただし自分なりのベトナム後遺症に襲われ、虚脱感を覚える日々が続いた。

 

 3年半も慣れ親しんだひとつの国や社会が切り裂かれ、住民たちが戦争や革命の苦しみに悩む過程を体験したことの衝撃は簡単には薄れなかった。

 

 人間のむきだしの葛藤(かっとう)を一生分以上も圧縮してみせられた思いに、東京の平穏のなかで自分の心身が枯れたようにも感じた。

 

 記者活動の面でもベトナム以外の対象になかなか関心がわかなかった。

 

 76年2月、ロッキード事件が日本の政財界を激震のように揺さぶり始めても、あまり興味を持てなかった。

 

 日本でのロッキード事件は米国議会からのロケット弾のような情報の炸裂(さくれつ)で始まった。

 

 上院外交委員会多国籍企業小委員会が2月4日に開いた公聴会で、米国の航空機製造大手企業ロッキード社が日本への売り込みのために巨額の不正資金を払っていたことを示す証言や資料が明るみに出たのだ。

 同月6日の同じ公聴会ではロッキード社が政界黒幕の児玉誉士夫氏をもう15年間も同社の対日売り込みの秘密代理人として雇い、総額700万ドル(当時のレートで約21億円相当)もの疑惑に満ちた資金を支払ってきたことが暴露された。同社のコーチャン副会長の証言だった。

 

 コーチャン氏はとくにロッキード社の大型旅客機L1011(トライスター)の全日空への売り込みに力をそそぎ、表の代理人である大手商社の丸紅を通じて、日本政府高官に200万ドル(約6億円)を提供したとも証言した。

 

 日本側では当然、大騒動となり、まず国会での事件関係者たちの喚問が始まった。

 

 なにしろ国際興業の小佐野賢治社主、丸紅の檜山広会長、全日空の若狭得治社長といった大物たちが容疑者並みの扱いで次々に証言を求められるのだ。

 

 巨額の裏金を受け取った政府高官としては田中角栄前首相の名がうわさされたが、本人は否定を続けた。

 

 京地検も刑事事件としての捜査を開始した。

 

 これほどの大騒ぎとなっても、私は自分には無縁だと思っていた。

 

 なお自然にわく関心の対象はベトナムだった。

 

 76年5月には北ベトナム軍のバン・チエン・ズン参謀総長が公表した長大な戦記を紙面で要約し、解説をつけて連載で紹介した。

 

 南ベトナムを軍事制圧した「ホーチミン作戦」の全容の発表だった。

 

 6月はじめにはベトナムと同様、共産主義を掲げるクメール・ルージュ(赤いクメール)が全土を制圧したカンボジアで、異様な大量虐殺が始まったらしいことを難民たちの証言を基に記事にした。

 

 私はこの記事には後にいささかの誇りを感じることとなる。

 

 ポル・ポト派の史上まれな自民族大虐殺を伝えた記事としては日本のメディアではきわめて早かったからだ。

 

 だがそんな心理状態のときに、突然、ロッキード事件の取材のためにロサンゼルスへ急行することを指示されたのである。

 

 まさに青天の霹靂(へきれき)だった。

 

 しかも、かなりの長期の取材になりそうだという。

 

 東京での私生活も予定がすっかり狂うこととなった。

 ロッキード事件の舞台がロサンゼルスへと広がったのは、まず不正資金を払った側のロッキード社本社がそこにあり、当事者の米国人たちもその地域に住んでいたからだ。

 

 日本の刑事事件の捜査が進むにつれ、それら当事者たちを尋問する必要が出てきたのである。

 

 思えば、この事件は日米同盟の暗部での出来事だった。

 

 ロッキード社は日本の自衛隊にF104戦闘機を納入した米国企業でもあり、日本の官界、政界との結びつきは密だった。

 

 日米安保での強いきずながあったからこそ、ロッキード社は大胆な買収活動を展開できたのだともいえよう。

 

 (ワシントン駐在編集特別委員)

 菅直人新首相について、どうしても気になることがあります。

 

それは菅氏が現職の国会議員として日本国民を拉致した実行犯の辛光珠(シン・ガンス)を釈放する要望をしたことです。シンは北朝鮮の大物工作員で日本国民の原敕晁さんの拉致に直接、かかわりました。そのことを含めての一連の犯罪行為により韓国当局に逮捕され、死刑を宣告されていました。

 

そのシンの助命と釈放を菅直人氏ら日本の国会議員が1989年、盧泰愚大統領に嘆願書を送って、求めていたのです。菅氏らはシンをはじめとする合計19人の「政治犯」の釈放を嘆願していました。

 

シンは菅氏らの要望どおりに釈放され、北朝鮮に送られました。

 

しかしシンは原さんだけでなく、横田めぐみさんの拉致にもかかわっていたという疑惑もその後、浮上しました。

 

日本の首相がかつて日本国民を拉致したことが確実な北朝鮮工作員の本国への無事な送還を韓国政府に求めていたという事実には、重みがあります。

 

首相としての釈明が不可欠でしょう。

 

なお現在の法務大臣の千葉景子氏もこの辛光珠釈放の嘆願書に署名しています。

 

この場ではひとまず菅直人氏のこの行動に関する資料を提示します。他のサイトからの借用です。大手週刊誌の記事の転載もあります。

 

この問題を考えるうえでの資料です。

 
 

 
 
 
辛光洙(シン・グァンス)を含む
「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」
 

私どもは貴国における最近の民主化の発展、とりわけ相当数の政治犯が自由を享受できるようになりつつあることを多とし、さらに残された政治犯の釈放のために貴下が一層のイニシアチブを発揮されることを期待しています。
在日関係のすべての「政治犯」とその家族が希望に満ちた報せを受け、彼らが韓国での社会生活におけるすぐれた人材として、また日韓両国民の友好のきづなとして働くことができる機会を与えて下さるよう、ここに心からお願いするものであります。

1989年

大韓民国
盧泰愚大統領貴下


日本国国会議員一同

 


 

署名した現職国会議員(06年1月補遺)
土井たか子 衆議院 社民党 兵庫7区 (日朝友好議連)(2005年落選)

菅直人 衆議院 民主党 東京18区
(2009年9月16日 国家戦略局担当相に就任)

田 英夫 参議院 社民党 比例 (日朝友好議連)
本岡昭次 参議院(副議長) 民主党(元社会党) (2004年引退)
渕上貞雄 参議院(社民党副党首) 社民党 比例 (日朝友好議連)
江田五月 参議院 民主党(元社民連) 岡山県
佐藤観樹 衆議院 民主党(元社会党) 愛知県10区 (2004年辞職 詐欺容疑で逮捕)
伊藤忠治 衆議院 民主党(元社会党) 比例東海(2005年引退)
田並胤明 衆議院 民主党(元社会党) 比例北関東(2005年落選)
山下八洲夫 参議院 民主党(元社会党) 岐阜県 (日朝友好議連)

千葉景子 参議院 民主党(元社会党)神奈川県
(2009年9月16日 法務大臣に就任)

山本正和 参議院 無所属の会 比例 (社民党除名)(日朝友好議連)

下図にある田辺誠(元社会党委員長、金丸・田辺訪朝団、議員引退)、現在は民主党群馬常任顧問としてにらみを効かす。民主党群馬は角田義一(元参議院副議長、元社会党員、訪朝経験あり)が朝鮮総連から寄付を受けるなど、総連と親しい関係を保つ。

安倍官房副長官:「土井、菅はマヌケ」過去の拉致事件対応批判

安倍晋三官房副長官は19日、広島市で講演し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の元工作員、辛光洙(シンガンス)元死刑囚による原敕晁さん(行方不明時43歳)の拉致事件について、社民党の土井たか子党首と民主党の菅直人前幹事長が辛元死刑囚の釈放を韓国政府に要求したことがあると指摘。「土井たか子と菅直人はきわめてマヌケな議員なんです」と名指しで厳しく批判した。
 安倍氏はさらに、「社民党や民主党が、いかにも昔から拉致事件に取り組んでいるかのように、小泉純一郎首相の決断を批判するのはちゃんちゃらおかしい。彼らはまず反省すべきだ」と、両党の過去の対応も批判した。
 政府の現地調査結果では、北朝鮮側は同元死刑囚が80年に原さんを拉致したことを認めたうえで、「法的な枠組みができれば(身柄を)提供する」としている。警視庁は同元死刑囚について今年8月、旅券法違反容疑などで逮捕状を取っている。
(毎日新聞2002年10月20日東京朝刊から)

「土井、菅両氏は間抜け」官房副長官が批判
 「いかにも(自分が)昔から取り組んでいたかのように、小泉(純一郎)首相の決断を批判するのは、ちゃんちゃらおかしい。まずは反省するべきだ」。安倍晋三官房副長官は19日、広島市内で開かれたシンポジウムで、北朝鮮による日本人拉致事件をめぐる民主、社民両党議員の過去の対応を厳しく批判した。
 特に、原敕晁さん拉致事件に関与したとされる辛光洙元北朝鮮工作員の無罪放免を韓国当局に求めたことがあるとして、土井たか子社民党党首と菅直人民主党前幹事長を「極めて間抜けな議員」と酷評。日朝平壌宣言署名の経緯や北朝鮮の核開発問題をめぐり、臨時国会で攻勢を強めるとみられる野党側を強くけん制した。
 安倍氏は1997年に国会で拉致事件を取り上げた際のことを回想し「警察も外務省も対応が冷たく、新聞もどこも報道しなかった。それどころか社民、民主の議員は『いいかげんなことを言うな』とわめいていた」と指摘した。
 副長官として首相官邸入りする前から、拉致被害者や家族の支援に取り組んできた安倍氏。小泉首相訪朝にも同行、ようやく解決の糸口を見いだしたにもかかわらず、野党の批判がやまないことに、業を煮やして昔話を持ち出したようだ。
(産経新聞2002年10月20日朝刊から)

 

菅 直人が釈放を要求した「工作員全リスト」(週刊文春)

 間抜けは誰か――。安倍晋三官房副長官が言い放った「土井たか子氏と 菅直人氏は間抜け」発言が、みっともない展開を見せている。
 話の発端は89年。韓国の盧泰愚大統領へ、土井氏や菅氏ら133名の 国会議員が、『在日韓国人政治犯の釈放に関する要望』という署名を 提出したことに始まる。「政治犯」29名を列挙して無罪放免を訴えた ものだが、その中に原敕晁さん拉致事件の実行犯、北朝鮮工作員・辛光洙が 含まれていたのだ。

「菅事務所側は署名当時、辛光洙のことを知らなかったと言い、逆に安倍 事務所に電話でこう告げたそうです。『蓮池さんらが拉致された78年当時の 官房長官は、(安倍氏の父の)晋太郎さんですよね。誰が間抜けな官房長官 だったか、という議論になりかねませんよ』。脅しとも取れる言い方に、 安倍事務所側は唖然として返す言葉がなかったそうです」(自民党関係者)
 拉致被害者の家族がテレビで切々と真相究明を訴えているのに、何とも みっともない応酬である。菅氏は自身のホームページで謝罪したものの、 「事実関係を再調査中」と記している。
 しかし、安倍発言の13年前、すでに小誌は、土井氏ら署名議員の 間抜けぶりを指摘していた(89年9月28日号参照)。さらに今回、 菅氏に代わって「再調査」すると、辛光洙以外にも多くの工作員の存在が 新たに判明した。確かに間抜けではない。大間抜けだったのである。
 まず、警察関係者の証言。
「29名中、スパイ容疑で逮捕されたのは10名弱です。彼らは日本に 滞在中、北朝鮮からの工作船の接岸ポイントをつくったり、自衛隊や 米軍基地の情報収集を行なっていました」
 次に、元朝鮮総連幹部の張明秀氏が解説する。
「列挙された政治犯の多くは、有名な工作員グループに在籍していました。 ひとつは『烽火山グループ』。これは関東地域で秘密工作を行なっていた 朝鮮総連の非公然組織です。責任者は総連東京本部の金学根副委員長。 彼らは在日韓国人を”獲得”して、”教養”と称するスパイ教育を施す んです。北朝鮮に密航させて、”教養”を受けさせることもありました。 また、在日だけでなく、韓国に密航して”獲得”して来ることもあった。 スパイに仕立て上げられた若者たちは、対南工作要員として韓国に潜入 するのです」
 また、菅氏らが署名した釈放要請書には、辛光洙の共犯者・金吉旭の名前や、 75年に大阪で発覚した「学園浸透スパイ団事件」の中心人物・白玉光と 共謀者3名、「鬱陵島拠点スパイ団事件」なる韓国東海岸の鬱陵島を拠点に スパイ網を張っていた地下工作員グループのメンバーも名を連ねている。 彼らのほとんどが、日本から何度も北朝鮮に密航してはスパイ教育を 受けていた。
 張氏が続ける。
「名前があがっている徐勝は、72年11月に開かれた韓国での第2審で、 北朝鮮に2度渡って労働党員になったことや、長兄に誘われてスパイ団に 入ったことを認めているんです。この公判には、日本から大勢の救援団体が 押しかけましたが、徐勝の証言を聞いて運動は白け、鎮静化しました。 しかし80年2月、朝日新聞は徐勝の母親のインタビュー記事を、同情を 誘うような内容で紙面いっぱいに掲載。これで救援運動が再燃しました。 雑誌『世界』や和田春樹東大教授も追随して、その結果、徐勝以外の辛光洙ら すべての政治犯まで『釈放せよ』という運動に広がってしまったんです。 当時、土井たか子が国会の壇上で雑誌を振りかざし、この問題に言及していた 姿を今でも覚えています」
 こうした日本の政治家の自覚の甘さを、北朝鮮は常に利用してきた。 知らなかったでは到底済まされない。


2003年10月14日 安倍幹事長の選挙応援の街頭演説

 

 


安倍晋三vs菅直人

安倍晋三
「菅さん、今いろいろヤジを飛ばされましたけども辛光洙というスパイがですね
これは拉致に関わっていたスパイ、これを釈放しろと言ったのは菅さんですからね」

菅直人
「ちょっと待ってください、これだけはちゃんと答えさせて、ちょっとまって、ちょっとまって、ちょっとまってください
これだけは、いやいやそうじゃない、これはですね今から約20年前に社会党が中心になって、在日外国人
つまり日本生まれの・・かい・・がいこく・・あのー韓国人があのー・・んん・・民主化運動をやって逮捕されたので
それに対して、その釈放要求の署名をしてくれと当時の、えーあの多分んーあのー土井委員長から当時私の居た
社民連の、ちょっと待ってください、委員長のえー田さんに話があって、私は田さんからの話しだったので
それに署名しました。それは日本生まれのですよ、日本生まれの・・あの・・韓国人が、あーいや・・あのー
全斗煥政権で、そういう活動したのを、釈放してくれっていう趣旨だからということで、えー署名した事はあります。
しかしその人間が、だ・誰かというのをですね、えーいちいち調べるような余裕が無い時の署名です。

 


 

 新刊書の紹介です。

 

 笹川良一氏の戦前の活動についての資料をまとめたユニークな歴史書です。

 

 笹川良一氏といえば、昭和の激動の中できわめて異色の軌跡を残した人物です。戦前と戦後、パワフルな政治活動を展開し、昭和史の主要人物のひとりであることは疑いはありません。

 

 笹川良一氏は戦後、アメリカ側からA級戦犯とされたことなどで、毀誉褒貶はありますが、現代の日本人がその足跡を知っておく人物でしょう。

 

 その笹川氏については現代史資料研究で知られる伊藤隆氏がすでに編纂した「巣鴨日記」や「笹川良一と東京裁判」という3部作シリーズが出版され、昭和史研究分野での功績大として重光葵賞を受けています。

 

 今回の書はその3部作シリーズの別巻として中央公論新社から出版されました。内容は笹川良一氏の日本の国防や航空への関与です。

 

 同書の帯には以下のような記述があります。

 

「風変わりな右翼政党の誕生と解散までの紆余曲折、国粋義勇飛行隊の創設、訪伊飛行、戦地慰問…。機関紙「国防」「国粋大衆」等が証す笹川良一、若き日の先見の明」

 

著者略歴

伊藤 隆
1932(昭和7)年、東京都生まれ。東京大学文学部国史学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東京都立大学法学部助教授、東京大学文学部教授、埼玉大学大学院教授、政策研究大学院大学教授等を経て、近代日本史料研究会代表、東京大学名誉教授、政策研究大学院大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 


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