2010年08月

 古森義久の産経新聞連載の紹介です。

 

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記事情報開始【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(23)ソ連のアフガン侵攻

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1980年1月、アフガニスタンの首都カブール市内で、列をなすソ連軍機動部隊の車両(AP)

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1980年1月4日、ホワイトハウスの大統領執務室からテレビとラジオを通じ、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、ソ連への穀物輸出の部分的な禁輸措置などを発表するカーター大統領(AP)

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 ■急変した対日安保政策

 日米同盟の長い歴史でもカーター政権の最後の年、1980年は画期的な曲がり角となった。米国の対日安保政策が大きく変わったのである。直接の原因はソ連のアフガニスタン侵攻だった。その背景にはカーター大統領の対ソ連政策の誤りがあった。

 カーター大統領が79年6月に私たち日本人記者団と会見したときは、同盟国としての日本の防衛のあり方にはっきりと満足を表明していた。

 「私は防衛費をGNP(国民総生産)1%以内に留めるという日本の政策は賢明だと思います。1%の枠内でも増額はできます。日本の防衛にはそれで十分でしょう」

 カーター大統領が「Wise」(賢明)という言葉を南部なまりで母音を引き伸ばして発音したことまで、私はよく覚えていた。ところがそのわずか半年余り後、カーター政権は大統領をはじめとして、正面から日本の防衛費の大幅な増額を迫るようになったのだ。

 同政権のブラウン国防長官は80年1月14日の東京での大平正芳首相との会談で、日本の「防衛努力の拡大」を求めた。翌月には国務省が一方的に「米国政府は日本が今後、着実かつ顕著に防衛費を増額することを期待する」という声明を発表した。日本の防衛政策の現状への明らかな不満の表明である。安保政策の劇的な変化でもあった。

 79年12月27日、ソ連は電撃的に戦車を含む大部隊を空輸までして、アフガニスタンの首都カブールに攻めこんだ。アフガニスタンのアミン大統領は「米国のスパイ」と断じられ、処刑された。ソ連は部隊を増強し、アフガン全土の制圧をめざした。完全な軍事侵略だった。

 長い東西冷戦でもソ連軍が東欧を飛び出して、非同盟の旗印を掲げるアフガニスタンのような国を軍事力で全面支配する例はなかった。ヤルタ体制の否定でもあった。米国は同盟諸国とともに軍事面での強固な対抗策を取ることを迫られたのだ。

 ちなみに日本の「防衛費はGNP1%以下」という政策は、76年の三木武夫内閣の閣議で決められた。普通の国家の防衛規模は安全保障の状況で決められるはずだが、まず対GNP比からという発想は憲法第9条に始まる戦後日本の異端な軍事忌避の産物だった。

 カーター政権は日本の防衛費の増額を迫るようになっても、公式にはGNPの何パーセントまでとは語らなかった。日本の主権を軽視するような要求となることを懸念したのだろう。だが私が接触していた国防総省や議会の対日安保政策関係者たちは、非公式ながら率直に1%以上の支出を求めていた。

 カーター大統領はソ連のアフガン侵攻に虚を突かれた形で、「私のソ連認識は根本から変わった」と告白した。それまでのソ連観がまちがっていたことの自認だった。

 米国がベトナム後遺症に病む期間に選ばれたカーター大統領は対外的なパワーの発揮を嫌った。在韓米地上軍の撤退案もその例証だった。就任後にはすぐ米国が長い年月、管理権を握ってきたパナマ運河を放棄する政策を「返還条約」として打ち出した。軍縮を推進し、自国の軍備も一方的に削減する姿勢をみせた。

 カーター大統領はとくに冷戦の相手のソ連に対しては、徹底して友好的で協調的な態度を示した。こちらが善意をみせれば、相手も善意で応じるだろうというリベラル融和外交の典型だった。

 中米のニカラグアで親米政権がソ連に支援された左翼の革命勢力に打倒されそうになっても、なにもしなかった。アフリカでもソ連がキューバ軍にエチオピアを支援させ、米国寄りのソマリアを攻撃させても、米国は動かなかった。アンゴラ、モザンビーク、スーダンという諸国が左翼政権に支配され、ソ連の勢力圏に吸収されていった。

 カーター善意外交は明らかにソ連を増長させた。ナイーブな友好姿勢が危険な拡張を招いていた。

 ソ連としてはアフガン全面侵攻という大ギャンブルに踏み切っても、米国はなにもしないと計算しての一大軍事行動だったといえよう。だがさすがのカーター政権も現実のグローバルな軍事脅威に目覚めたのだった。

 以後の日米同盟では日本の防衛費の「着実かつ顕著な増加」という言葉がキーワードとなっていった。(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)

菅首相は先日、日韓併合を「悪」だとして、韓国に謝罪しました。

 

この菅首相の認識がいかに誤っているか。拓殖大学学長の渡辺利夫氏がきわめて説得力に富んだ一文を書いています。

 

以下に紹介します。

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【正論】拓殖大学学長・渡辺利夫 現在の価値観で過去断罪するな
2010年08月27日 産経新聞 東京朝刊 オピニオン面


 

 韓国併合(日韓併合)条約は1910年8月22日に調印され、同29日に発効した。併合100年を機に菅直人氏の首相談話が、過日発表された。往時の日韓関係についての事情を顧みることなく、謝罪自体を自己目的としているがごとき談話であった。

 ≪謙虚で率直で勇気あることか≫

 「当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。…この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明いたします」

 ここまで踏み込んでいいのか。談話はさらにこういう。「私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います」

 現在の価値観をもって往時の日韓関係を眺め、“そういうことはあるべきではなかった”と考えることが、どうして謙虚で率直で勇気のあることなのだろうか。併合条約を有効だとする日本が、条約自体を無効だと言い張る韓国に謝罪の言葉をいくら積み上げたところで、相手を満足させることなどできはしない。道義において自国がいかに劣っていたかを強調すればするほど、姑息(こそく)と卑屈にみずからを深く貶(おとし)めるだけである。現在の価値観で過去を論じることのいかがわしさに、もうこのあたりで気づかねばならない。

 ≪各国との合意による合法統治≫

 李朝時代末期の韓国は、時に清国、時にロシア、時に日本と、周辺の大国に依存しようという「事大主義」の傾向を強め、自立と近代化への展望を欠いて政争に明け暮れた。当時の韓国は清国と君臣関係(清韓宗属関係)にあり、韓国内で内乱が起こるたびに清国に派兵を要請した。日本がこれを脅威と見立てたのは当然であり、清韓宗属関係を断ち切るための戦争が日清戦争であった。

 シベリア鉄道が完成してしまえば、ロシアが朝鮮半島の占領へと向かう可能性は十分にあった。当時、ロシアは満州(中国東北部)に強大な軍勢を張っており、日本人の多くがロシアを「北の脅威」とみていた。ロシアによる朝鮮半島の占領は、すなわち日本の亡国の危機である。そうであれば併合によって韓国の近代化を図り、半島の守りを固めることは日本にとってどうしても避けられない安全保障上の戦略であった。

 日露戦争とは、ロシアの南下政策に抗して、日本が韓国の「自由裁量権」を獲得しようとして戦った戦争である。自由裁量権とはいかにも“あけすけな”表現だが、弱者に「安住の地」がなかった帝国主義時代の用語法である。

 日本の韓国における自由裁量権は、ポーツマス条約でロシアにより、また日英同盟下のイギリスにより認められた。さらには日本は米国との間でも、日本が米国のフィリピン領有を承認し、米国が日本の韓国統治を承認するという桂・タフト協定を結んでいた。日本の韓国統治は幾重にも国際的に承認され、併合への道を阻止するものはなかった。各国との合法的な条約や協定に則って日本の韓国統治が展開されたのである。

 ≪近代化は日本の支援によって≫

 併合は韓国人にいまなおつづく鬱屈(うっくつ)であろう。日本人にとってもこんな手荒なやり方ではなく、別の方法を選択することができなかったかという思いはある。日本が韓国の独立を承認して韓国の近代化を助力し、2国の善隣関係を保ちながら「共に亜細亜を興す」(福澤諭吉)友邦たりえたとすれば、それに越したことはなかったであろう。しかし、現時点に立って判断してもそれは不可能事であったといわねばならない。

 1つには、日本の開国維新のような、近代化へと向かう挙国一致の政治的凝集力が韓国の中から生まれてくる可能性を期待することはできなかった。2つには、相当の軍事力を温存したまま敗北を余儀なくされたロシアが対日報復の挙に出ることを日本人は恐れていた。日本人がこの恐怖から解放されるには、革命によってロマノフ王朝が完全に崩壊するまで待たなければならなかった。

 韓国は日本の強圧によって結ばされた併合条約は無効だというが、往時の韓国民の中にも自国のみで韓国の近代化を図ることは無理であり、日本との「合邦」により日本の支援を受けながら近代化を実現するより他なしと考える一群の有力な人々が存在したことは指摘しておかねばならない。李容九、宋秉●などをリーダーとする「一進会」に集った人々である。統監府の資料によっても参加者は14万人、実際には数十万人に及ぶ当時の韓国最大の社会集団であった。首相桂太郎をして併合を決意せしめたものが彼らによる合邦への要請にあった。

 しかし、いくらこういった議論を重ねても、併合条約が有効か無効かの議論を日韓で一致させることは期待できそうにない。ならば、語られるべきは過去ではなく、現在と未来でなければならない。(わたなべ としお)
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 小沢一郎氏が民主党代表選への出馬を決めたとのことです。

日本の各メディアがいっせいに報じています。その小沢氏の代表選出、そしてその結果としての新首相就任を私がなぜ待望するのか。

 

  私が小沢一郎という政治家をどうみるのか。このブログを少しでも読んでくださった方なら、ご存知でしょう。私は小沢一郎氏を日本をダメにする政治家だと思っています。ではどうして彼の首相就任を待望するか。

 

 それは彼が首相になれば、日本の政界が大規模な再編成を進められるだろうと思うからです。民主党は割れる公算が高い。そうなれば民主党のまとも派と自民党のまとも派が結びついて、新たな現実志向、保守志向の政党を結成できるのではないか、と思えるからです。

 

 小沢氏が首相になれば、さすがに日本国民の多数派も、猛烈な拒否反応を示すでしょう。内閣支持率もめちゃくちゃに下がるでしょう。そんな政権が長くもつはずがありません。しかし短期の在任中、小沢首相は国民の正しい政治への意識を覚醒させるでしょう。

 

 小沢氏の最側近の山岡賢次議員が26日の日本のテレビのインタビューで「(小沢一郎氏は)日本の政治家や官僚の利権体質を変える」と語っていました。普通の日本人なら、口をあんぐりのひどいコメントです。利権体質の王様が他人の利権体質を矯正するというのですから。これはブラックジョークです。

 

 山岡氏のコメントに象徴される奇怪さ、とんでもなさが「小沢一郎首相」なのです。こんな奇怪が首相を日本国民が許容するはずがない。「小沢首相待望論」というのは日本国民の良識に賭ける一大逆説なのです。

 

 

 日米同盟のあり方が問われていますが、日本国内にはそもそも同盟自体を否定する意見もありました。いまでは日米同盟に正面から反対するのは政党では日本共産党ぐらいとなり、民間の論者たちも、日米安保条約破棄を唱える人は皆無に近くなりました。

 

 しかしかつては日米同盟破棄という主張はかなり広範に存在しました。長年、最大の野党だった日本社会党の「非武装中立論」がその典型でしょう。

 

 そうした日米同盟否定論者たちがよく指摘したのが非同盟運動でした。その非同盟について報じた私の記事を連載の一部から紹介します。産経新聞の8月23日朝刊掲載の記事です。

 

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記事情報開始【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】(22)非同盟運動の虚実

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1979年9月、キューバの首都ハバナで開かれた非同盟運動の第6回首脳会議の一場面。会議が定刻通り始まらず、議長役のカストロ首相(中央右)も腕時計に目をやった(AP)

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1979年8月、首脳会議に出席するためハバナに到着したユーゴスラビアのチトー大統領(左)とともに、儀仗(ぎじょう)兵を閲兵するカストロ首相(AP)

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 ■自国の利害と打算

 飛行機のタラップを降りたとたん、仰天した。フィデル・カストロ首相が目の前に立っていたのだ。手を伸ばせば届きそうな3、4メートルの至近距離だった。戦闘服に戦闘帽、おなじみの黒く長いアゴヒゲが目立つ。意外と小柄なのだが、上半身が不自然なほど大きくみえる。後で防弾チョッキのためだと知った。キューバのハバナ空港だった。

 1979年9月、私は非同盟運動の第6回首脳会議の報道のためにハバナを訪れた。メキシコ市からの飛行機では隣席にキューバで政治訓練を受けるというメキシコ共産党の若い女性党員がいて、中南米での革命の大義をたっぷりと聞かされた。

 飛行機には同首脳会議に出るアフリカ諸国代表らも乗っていて、会議の議長役のカストロ首相が空港まで出迎えたのだった。首相は機内から降りてくる乗客の群れにすたすたと歩み寄り、知った顔をみつけて握手をし、抱擁をする。ボディーガード数人が周囲にさりげなく立つ。

 非同盟とは文字どおり、東西冷戦のなか米国とソ連いずれの軍事同盟にも属さない諸国の集まりだった。61年にインドのネール首相、ユーゴスラビアのチトー大統領、エジプトのナセル大統領ら第三世界の首脳が中心となり、旗揚げした。東西陣営の緊張緩和を説き、植民地解放を訴えた。米ソ対立で硬直化した世界に柔らかな新風を呼んだ。日本でも日米同盟に相対する非同盟の概念は当時の社会党などの非武装中立のスローガンにも合致し、それなりに人気を集めた。

 非同盟の首脳会議は3年に1度、創設から18年目のハバナでの会議は第6回だった。同会議には合計94カ国の代表が参加し、うち54人が国家元首クラスだった。だが会議の内容はどの軍事ブロックにも属さないという非同盟の精神からは遠く離れていた。

 「われわれ非同盟諸国はソ連との間に兄弟的なきずなを保っている。一方、ヤンキー帝国主義は非同盟主義の意義を傷つけてきた」

 カストロ首相は開会の場で1時間半も演説して、ソ連との連帯を訴え、米中両国を激しく非難した。ベトナム、ラオス、エチオピアなどの親ソ連諸国が同調した。

 なにしろカストロ首相はソ連からの巨額の援助と引き換えに「栄光あるソ連の要請とあれば、世界のどこにでもキューバ兵士を派遣する」と明言しているのだ。現実にキューバはアンゴラ、エチオピア、コンゴ、ニカラグア、ボリビアなどの諸国にまで軍隊を送り、ソ連の傭兵(ようへい)として共産側勢力のために戦っていた。

 私が駐在していたワシントンでも、米国政府はこの首脳会議前には非同盟のソ連密着への動きに警鐘を発していた。会議の場での親ソ派の政治工作は露骨だった。昼夜ぶっ通しで続く会議ではまず、カストロ首相が議長の特権を利用して親ソ国代表の演説を午後や夕方の正常な時間に集中させる。逆に中立や反ソ連、米国や中国に同情的な国の代表の演説は深夜や未明となる。

 キューバ当局はとくにソ連と対立し、親ソ派のベトナムに侵攻した中国には厳しかった。米中国交樹立でワシントンに初赴任し、この会議の取材にきた新華社通信の支局長に記者証をあえて出さないという子供じみた嫌がらせまでするのには驚いた。そして会議では中国に支援されたカンボジアのポル・ポト政権を非同盟から追放することに全力をあげた。

 ちなみにポル・ポト政権はこの会議に最高幹部のキュー・サムファン氏を送りこんでいた。同氏がハバナ市郊外の宿舎で開いた小規模の記者会見で、私が「ジェノサイド(大虐殺)」について質問すると、彼の頬(ほお)が一瞬、紅潮したのをよく覚えている。

 カストロ首相ら親ソ派は会議の最終宣言に「社会主義国との協力」を明記し、非同盟運動全体をソ連と結びつけようと試みた。この試みに正面から反対したのがユーゴのチトー大統領だった。

 87歳の巨躯(きょく)の同大統領はインド、インドネシア、エジプトなど多数の国家代表との協議を繰り返し、非同盟運動を本来の中立、穏健な立場に保つことを主張した。その結果、親ソ派の野望はほぼ抑えられた。

 だがこの会議全体を通じて明示されたのは、自国の利害や打算で動く「非同盟」諸国のぎらぎらした姿だった。非同盟の立場自体が同盟よりも道義的に高い位置にあるという日本の一部の議論も、神話にすぎないと感じさせられたのだった。(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)

 

[etoki]1979年9月、キューバの首都ハバナで開かれた非同盟運動の第6回首脳会議の一場面。会議が定刻通り始まらず、議長役のカストロ首相(中央右)も腕時計に目をやった(AP)[etoki]

 

[etoki]1979年8月、首脳会議に出席するためハバナに到着したユーゴスラビアのチトー大統領(左)とともに、儀仗(ぎじょう)兵を閲兵するカストロ首相(AP)[etoki]

 

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 自民党の気鋭政治家、稲田朋美氏が終戦記念日に際して、日本のあり方に鋭い意見を述べる論文を発表しました。

 

 終戦記念日は過ぎ、「8月の平和論」もまた戸棚にしまわれる感じとなってきましたが、改めて稲田論文を紹介します。

 

 そのなかでとくに私が注視すべきだと思ったのは、稲田氏が自党である自民党に対し批判を表明し、反省をうながしている点でした。

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【正論】終戦から65年 弁護士、衆院議員・稲田朋美
2010年08月10日 産経新聞 東京朝刊 オピニオン面


 

 ■「自らの国は自らが守る」気概を

 1枚の写真がある。65年の歳月でセピア色になっているがそれでも凛(りん)として立つ青年の輝きは失せていない。青年のまなざしははるか遠くをみている。その目線のさきに何があるのか。青年が自分の命を賭けてまで守ろうとしたものは何だったのか。

 特攻隊員として訓練中に殉職した母方の伯父は21歳、終戦のわずか3カ月前のことだった。

 ある日、中学生だった息子がその写真をみて、「この人僕に似ているな」とつぶやいた。その息子も20歳、写真の伯父が散華した年齢になっている。

 ≪村山、河野談話の撤回から≫

 政治家としてどうしてもやらなければならないことがある。戦後50年目の平成7年、自社さ政権の村山富市内閣が出した村山談話と平成5年、宮沢喜一内閣でのいわゆる従軍慰安婦に関する河野洋平官房長官談話の撤回だ。

 平成7年6月9日、衆議院本会議で「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議案」が起立採決により可決され、同じ年の8月15日に村山談話がだされた。そこには、植民地支配と侵略に対する反省とお詫(わ)びはあるが、日本を守るために命を捧(ささ)げた240万の靖国の英霊に対する感謝と敬意、また国際法違反の原爆投下や空襲などで犠牲になった同胞80万人に対する追悼の心の片鱗(へんりん)もない。

 いかなる歴史観にたとうとも、命を賭けて自分の国を守る行為は理屈ぬきに尊い。いやしくも日本の政治家なら同じ思いで政治をしているはずであり、政治家が戦後50年目に何よりも先に思うべきことは、命とひき換えに国を守った英霊と原爆投下に象徴される許すことのできない非道かつ不法な攻撃で殺戮(さつりく)された民間人への哀悼の念以外にはありえない。当時どのような政治判断によってなされたのかは知らないが、このばかげた、中国、韓国、北朝鮮に阿(おもね)るだけの有害無益な村山談話を引き継がないことを日本国の総理が宣言することがわが国再生の第一歩だ。

 平成5年8月4日の河野談話は、朝鮮人慰安婦を強制連行したという吉田清治なる人物の話をきっかけに広がった日本軍関与説を認め、「心からお詫びと反省」をのべ、これを歴史教育にも生かすと表明した。ところが後日この吉田の話が嘘(うそ)であることが明らかになり、談話にかかわった石原信雄元官房副長官も強制を認めたものではないと語ったが、歴代内閣はこの談話を検証しようともせず、漫然と引き継いできた。

 その不作為と事なかれ主義により、日本がいわゆる従軍慰安婦を強制連行したという不名誉な嘘が事実として世界に流布され、平成19年7月30日、アメリカの下院で非難決議がなされた。そのなかで日本は「強制的軍売春である『慰安婦』制度」をつくり、「その残忍さと規模において、輪姦(りんかん)、強制的中絶、屈辱的行為、性的暴力が含まれるかつて例のないものであり、身体の損傷、死亡、結果としての自殺を伴う20世紀最大の人身売買事案」と書かれている。とうとうわが国は人さらいの強姦殺人国家に仕立て上げられたのだ。

 ≪英霊に恥じぬ政治が必要≫

 このような事実無根のいわれなき非難について、日本国政府はまともな反論をしなかったが、作曲家のすぎやまこういちさんは私財約2千万円を投じてワシントン・ポストに意見広告を出した。心ある言論人と一部の政治家が名を連ねた。本来自国の名誉を守るのは政府の仕事であるのにそれをせず、この崇高な行為について政府はコメント一つださなかった。

 悲しいことに、これらは自民党政権下のことである。下野して反省すべきことは多くあるが、「(カルタゴの滅亡が示すように)自らの安全を自らの力によって守る意志を持たない場合、いかなる国家といえども独立と平和を期待することはできない」(塩野七生著「マキアヴェッリ語録」)。事なかれ主義が日本の政治をだめにしてきたことを自覚すべきだ。

 菅直人首相は日韓併合100年にあたり、反省と謝罪の談話を発表するらしいが、一体何のためにするのか。仙谷由人官房長官は戦後個人補償に前向きとも受け取れる発言をしたが、戦争被害で国と国とが最終決着した平和条約(日韓基本条約)を無にするようなもので、国際法上の正義に反した、不用意かつ不見識というほかない。のみならず、平和条約が締結された以上個人補償は認められないとする最高裁判決に反した、法的にも間違った発言である。

 何よりもサンフランシスコ平和条約で課せられた前例のない苛酷な賠償条件を受け入れて、独立を回復して国際社会に復帰し、賠償を誠実に履行したわが国の戦後の歩みそのものを否定するものであり、日本の政治家として絶対にあってはならない発言だ。

 一体この国はどこへ行くのか。そして何を目指すのか。21歳で散華した私の伯父を含む靖国の英霊に恥じない「自らの国は自らが守る」という気概を政治家が取り戻すことなくして、この国の将来はない。(いなだ ともみ)

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