2011年02月

 2月22日は「竹島の日」です。

 

竹島や尖閣の問題をこの機会に再考したいですね。

 

 

【正論】国学院大学教授・大原康男 竹島、尖閣の日を国が制定せよ


 

 

 

 ≪今日は島根が定めた竹島の日≫

 本日2月22日は何の日か-と問われ、すぐに答えられる人がどれほどいるだろうか。実は「竹島の日」なのである。平成17年3月25日、島根県議会は 「県民、市町村及び県が一体となって、竹島の領土権確立を目指した運動を推進し、竹島問題についての国民世論の啓発を図るため」、条例でこの日を定めたの である。明治38(1905)年1月28日に政府が竹島を島根県に編入、2月22日に島根県知事が所属所管を明らかにする告示を行ったことに由来する。

 周知のように、わが国はこの竹島のみならず、北方領土、尖閣諸島という固有の領土をめぐり、近隣諸国との間で長年にわたって領有権を争う深刻な葛藤に余 儀なく巻き込まれてきた。残念ながら、解決の目途はほとんど立っていないが、この機会に長年の懸案に関し改めて全体的な視座を提示しておくのも意味あるこ とと思い、以下、要点を摘記しておきたい。

 まず、念頭に置くべきは、これらの領土に関する正確な史実である。今さら繰り返すまでもないことだが、いずれの島嶼(とうしょ)も平穏かつ適法にわが国に編入された歴史を有する日本固有の領土である。

 韓国の竹島に対する領有権の主張は、連合国による日本占領末期の昭和27年1月に、韓国が一方的に「李承晩ライン」なる海上主権を宣言し、竹島を内に含 む境界線を公海上に引いたことに始まった。中国の尖閣諸島へのそれも、国連アジア極東経済委員会の調査報告が東シナ海の大陸棚に巨大な石油資源埋蔵の可能 性を指摘したことを契機に、46年に行われている。それまでの両国の公文書や新聞・地理書などには、日本領であることが明記されているにもかかわらず、で ある(後に、それらは隠蔽ないしは改竄(かいざん)された)。

 ≪固有の領土で国際世論形成を≫

 北方領土については、もはや多言を弄するまでもない。日ソ中立条約を踏みにじった対日開戦、日本のポツダム宣言受諾後も停戦せず北方領土に侵攻・占領 し、60万人を不法抑留(うち6万人が死亡)した同宣言の蹂躙(じゅうりん)、さらには領土不拡張を宣明した連合国宣言(ソ連も署名)やカイロ宣言(ソ連 も加わったポツダム宣言もこれを尊重)への違反-という三重の不法行為が原点になっている。

 政府はこれまで一貫して「領土問題はない」と言明してきたが、相手国が「既に解決済み」と突っぱねて実効支配を強化し続け、あるいは実効支配に向けて着 実に準備しているという現状からすれば、当事国だけを対象とする主張では十分とは言い難い。これらの島々がわが国固有の領土であることを複数の外国語で簡 明に説述する冊子を作成、在外公館を通して各国・地域・機関に広く頒布してわが国を支持する国際世論を地道に醸成することが肝要である。

 かのフォークランド紛争に際してもわが国民の関心は低かったように、「極東」の領土をめぐるもめ事など、当事国でない多くの国には縁遠い問題であるからだ。

 それだけに、米国は特に重要である。何よりも、米国は「竹島は1905年以降、島根県の管轄下にあり、韓国から過去に領土権の主張はなされていな い」(ディーン・ラスク米国務次官補の書簡 昭和26年)、「国後など北方四島は正当に日本の主権下にあることを認める」(日ソ共同宣言発出時の公式声明  昭和31年)、「尖閣諸島は日本の施政下にある。従来通り安保条約の適用を確認した」(国務省の公式見解 平成21年)と日本の主張を支持してきた。

 ≪重要な米国との連携の強化≫

 米国の対応は対中、対韓外交の現場でぶれることもあるが、日米同盟を安全保障の支柱とするわが国は領土保全面でも米国との緊密な連携を保たねばなるま い。ただし、韓国は集団的自衛権の行使を認めており、わが国の対米同盟はその部分では後れをとっていることにも留意すべきであろう。

 さて、冒頭で紹介した「竹島の日」と並んで、「北方領土の日」(2月7日 昭和56年制定)と「尖閣諸島開拓の日」(1月14日 平成22年制定)がある。「北方領土の日」は閣議了解によるもので、当日には、首相も出席して盛大な返還要求大会が挙行される。

 だが、「尖閣諸島開拓の日」は歴史も新しく、地方自治体(沖縄県石垣市)の条例に基づくものであるため、政府の支援がないどころか、むしろ過敏な外交上の配慮から冷淡に扱われているという点で「竹島の日」と変わらない。

 ことは同じ領土問題である。実施すれば中韓両国が猛反発することは予想されるが、とりあえず、この2つの記念日を閣議了解で再制定し、地方マターを全国マターに格上げすることが望まれる。

 ここまでは政治レベルの事柄だが、国民の意識改革も必要。一部報道によれば、竹島を訪れる外国人の大部分が日本人であるというが、これでは、韓国の管轄 権の事実上の容認につながりかねない。ロシアのビザによる北方領土訪問の自粛は既に政府方針となっているが、竹島への渡航もまず国民自らが控えるべきであ ろう。(おおはら やすお)

子ども手当に対する反対論をさらに紹介します。

 

前述の週刊現代最近号の特集記事「世紀の愚策 もうやめようよ、子ども手当」からの引用です。副題は「イヌだってネコだって、自分の子は自分で育てます」となっています。

 

 

今回の紹介分コメントは育児の問題により近いところにいる専門家たちの意見です。

 

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 NPO法人学習学協会代表理事で、『モンスター・ペアレント』著者の本間正人氏も、こう指摘する。

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 「モンスター系の親で、子どものことをあまりかまわない親のところに子ども手当がいったら、お酒や博打などの遊興費に消える可能性があります。国民を信じてこの政策をやろうとい建て前なのでしょうが、せっかく集めた税金の使い途としては、あまりに有効性が乏しい。

 かつて自民党も竹下登政権で、ふるさと創生事業として1億円を3000自治体にバラまきました。これは1回限りですから3000億円。民主党の場合は3兆円ずつ毎年配ると言っているんだから、桁違いです。どちらも、カネをバラまけば国民が喜ぶだろうという、低い民度を想定した政策です。ところが国民は、それに乗ってしまった。票目当てのバラまき政策を投票行動に結び付けてしまったのだから、日本人の民度は低すぎます」

 

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 明治大学文学部教授で、臨床心理士でもある諸富祥彦氏が語る。

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 「いまの政治を見てもわかるように、日本に足りないのは能力の高いリーダーです。本当に日本のことを考えるなら、優秀なのにおカネがなくて大学に進学できない子どもを支えるような制度を作ればいい。イギリスでは、能力のある子どもには学費だけでなく、アパート代まで出してあげる制度があります。恩返しは将来、国を引っ張っていってもらうことです。

 若くして子どもをたくさん産んでいる親御さんに対しては、親御さん自身のサポートがいる。『私はもう子育てはできません』と涙を流しながら語る人もいれば、子育てストレスから児童虐待に走る人もいる。そうした家庭は、まだ充分に成熟しておらず、子育ての大変さがわかっていない親が、なかば子どものまま子どもを育てている状況なのです。ところが皮肉なことに、そうした家庭のほうが、子どもを産む率が高い。大人にとっても子どもにとっても不幸です。子ども手当は、こうした問題になんら貢献しないのみか、問題を拡大する。子育て支援は、今のようなバラまきではなく、ポイントと目的をしぼって行うべきなのです」

 

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 作家の石川結貴氏は、教育や子育てを中心に取材を続けている。その取材で得た感触はこうだ。

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 「お母さんたちの中には、子ども手当を子どもの塾代やお稽古事に充てている方も多いですね。昨年以来、子ども手当をあてこんで1万3000円の講座をつくる塾も出てきました。子ども手当を教育費に回すというと良いことのように聞こえるけれど、ただでさえ塾やお稽古事で忙しい子どもたちが、この手当によってさらに忙しくなり、疲弊してしまっているというのが現状です。

 こんなことより、本当に子どものためを思うなら、やるべきことはほかにあるでしょう。例えば、給食費を無料にするとか、家庭の子育てをサポートする制度を創設するとか、子育てはたしかにおカネがかかるものですが、おカネがあれば子どもが育つわけではない。その根本の考え方が間違っているんです」

        

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 中東の民主化!?

 

 イスラム圏の民主化?!

 

 エジプトで起きたことは民主化ですよね。

http://img.news.goo.ne.jp/picture/kyodo/PN2011020901000133.-.-.CI0003.jpg?640x0

 

 

 では中東でもイスラム圏でも、民主化は無理ではなかったことになります。

 

 イラクの民主化は無理だと主張した人たちまでが、エジプトの民主化を認め、ほめています。

 

 いまその「民主化」が中東諸国やイランに波及しているそうです。

 

 しかしイラクではそんな現象は起きていません。

 

 なぜならイラクではすでに民主化が軌道に乗ったからでしょう。

 

 いやいや、そんなことはない?

 

 まさか「不都合な真実」ではないですよね。

 

 以下の記事を書きました。

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  [ワシントン=古森義久]

 

エジプトでの政権打倒が触媒となって中東、イスラム圏に広がった反政府・民主化への動きがイラクでは起きていない現実が米国の国政の場で指摘されるようになった。イラクでは米国の軍事介入の結果にせよ、すでに民主化が進んだことがその理由とされ、ブッシュ前政権のイラク政策の再評価にもつながってきた。


エジプトでの民主化要求に刺激されたような同種の反政府デモはバーレーン、イエメン、ヨルダン、アルジェリア、イランなどの諸国で連鎖のように広がった。

 

しかし中東の要衝イラクでは政権や統治のあり方自体に抗議する動きは起きず、まず上院共和党の有力者ジョン・マケイン議員が「イスラム教の過激派あるいは専制的な政権に対し民主化を求める動きはいま中東によきウイルスのように広がったが、その種のデモがないのはイラクだけだ」と述べ、イラクではすでに民主化が進んだことをその原因として指摘した。

 

上院共和党院内総務のミッチ・マコネル議員も「イラクで今回、エジプトに似たデモが一切、起きていないのはブッシュ前大統領やマケイン議員の主唱でイラクへの米軍増派と平定そして民主化が軌道に乗ったためだ」と言明した。ブッシュ氏はイラクに対し2005年に「自由への課題」と題する民主主義政体の構築計画を打ち出し、複数政党や自由選挙の実施を支援した。

 

イラクの現状についてはニューヨーク・タイムズ15日付もバグダッド発で「イラクは民主的選挙で選ばれた政権に統治されているため、国民側もその政権を受け入れ、反政府デモはない」と報じた。同報道はイラク国内の一部には政府への抗議もあるが、その対象は公共サービスや雇用、物価などであり、政権の打倒運動ではない、とも付記していた。

 

米国の中東問題専門家ダニエル・パイプス「中東フォーラム」所長も「中東全域でもイラクだけはいま民主化要求デモが皆無」と述べ、「イラクではすでに自由な選挙、言論の自由、法の統治など民主主義の要件が備わったからだ」と理由を説明した。

 

アラブ諸国の政治的な地域協力機構の「アラブ連盟」は3月29日に首脳会議をバクダッドで開き、最近の政情などについて協議するが、この時期の開催地にイラクを選んだこともイラクの民主化の進展や安定への認知を物語っているといえる。

 

パイプス氏はイラクの現状に関連して「ブッシュ前大統領がイラクなど中東の民主化構想を打ち出したときは米国内部でもリベラル派から『イスラムの教徒や教義は本質的に民主主義には合致せず、中東の民主化という目標はあまりに非現実的だ』と非難されたが、現在のイラクの実態やエジプトでの展開はその非難こそが的外れだったことを証明しつつあるようだ」と論評した。

 

オバマ政権もいまでは中東やイスラム教徒の民主化という政策目標を大きく掲げるにいたった。パイプス氏はそのオバマ政権の対しても「民主主義の促進には時間と手間がかかることと、民主化の名の下にイスラム過激派が権力を握る危険があることを銘記して、慎重に進むべきだ」と提言した。

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 週刊現代の最近号の特集記事「もうやめようよ、子ども手当 イヌだってネコだって、自分の子は自分で育てます」からの引用を続けます。

 

 

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 国家の品格」の著者として知られるお茶の水大学名誉教授の藤原正彦氏が子ども手当を一蹴する。

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 「家族に囲まれて幸せだと思える社会なら、その中で育った子どもたちは、『自分も両親のような家庭をつくろう、子どもを産もう』と考えるでしょう。でも、今のような弱肉強食の殺伐として世の中だと、『産んでもどうせ子どもが苦労するだけ、幸せになれないだろう』と思っています。

 少子化問題は、国の体質そのものを改革しない限り、解決しません。ところが今の政治家は、根本的な解決策である体質改善には目もくれず、カネをばらまいたり、外国人1000万人移民といった安易な方法で解決しようとする。国のことを命がけで考えてはいないから対症療法しか出てこないのです。政治家はもっと長期的、大局的視野に立って、判断しないといけないのに、こんな調子で次の選挙を考え、民意におもねっていたら国は滅びます」

 

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 評論家の大宅映子氏が言う。

http://casting.horipro.co.jp/photo/ohya.jpg

 

 「子ども手当のそのものの理念は、世界でも例のない高齢・人口減少社会に向けて、子どもをたくさん産んでもらおうという少子化対策だったはず。しかし、多くの家庭で貯蓄に回っている現実を見ると、痒くないところを掻いているようなものです。

 

 それに、いったん手当をもらい始めたら、家庭ももらうことを前提に家計を組む。すでに始めた以上、もはや給付をやめるのも難しいでしょう。民主党の政策は高校の授業料を無償化するとか、高速道路をタダにするとか、財源もないのにバラまきばかりです」

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 日本の核武装が話題となってきました。

 

 その議論をすることはきわめて健全であり、日本の安全保障をより多様に、より現実的にするたうえで、大きな実利さえあります。

 

 しかし日本が実際に核兵器を開発し、保有し、配備するという作業となると、これはまた別です。

 

 「日本も核武装すべきだ!」とは、誰にでもいえる主張です。だが現実にその目標をどう実現させるのか。考えておくことも欠かせません。

 

 その点で佐瀬昌盛氏の以下の論文はきわめて貴重です。

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【正論】防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛 「核問題議論せず」に決別しよう
2011年02月15日 産経新聞 東京朝刊 オピニオン面


 

 ≪「核不確実性」時代の不安≫

冷戦期の米ソは、今日とは桁違いの核兵器による破壊力を保有して睨(にら)み合っていた。理論上は世界を7回、破壊できるとされた。

が、「唯一被爆体験国」の日本国民は何だかんだいっても、それほど不安と恐怖に戦(おのの)いていたわけではない。なぜか。米ソは1960年代後半には「おおよその核均衡」の下、核軍備管理交渉を始めたからだ。敵対しながらも、米ソは核に関する共通理解を深めていった。だから、米ソが共倒れになる核戦争は回避されるだろうと、世界も日本もほぼ安心できた。

今日、日本人は北朝鮮と中国の核を前に、深刻な不安を抱えている。冷戦期同様に米国の〈核の傘〉の下で暮らしているはずなのに。核戦力で米国と北朝鮮とでは横綱と序二段ほど、米国と中国とでは横綱と十両ほどの差があるというのに。不安は何に由来するのか。6カ国協議で日米韓中露が北に核力士廃業を薦めても駄目。米中間に核軍備管理交渉が成立する見通しもなし。中国の核ドクトリンは建前と本音が大きく違うようだし。北には核ドクトリンの有無さえ不明。要するにそんな不可知、不可測が不安の源なのだ。加えて米国の〈核の傘〉も先様のご都合で様変わりの気配である。

≪気がかりな精神的核武装論≫

ならば、日本の言論界に少数ながら核武装論者が登場しつつあるのは何の不思議もない。ただ、それらの論には気がかりな点がいくつかある。最大の気がかりは、その核武装必要論が基本的に精神論であることだ。核武装してこそ、喪失した独立・自尊が回復されるというのである。この主張に傾聴すべきものがあるのは事実だが、多面的、多角的検討を欠いて単純すぎる。論者によっては財政的、技術的可能性も検討しているとの強弁もあろう。それでも基調は精神論にあって、財政・技術論は引き立て役でしかない。

5年足らず前、自民党政調会長だった故中川昭一氏が「自分は核武装論者ではない」と明言しつつ日本には核保有論議が必要だと声を上げた。が、非難の合唱でたちまちかき消され、少なくとも政界では核論議は沙汰やみとなった。私は当時、「つくらず、持たず、持ち込ませず」の非核3原則に「議論せず」を加えての「4原則」化はおかしいと本欄で論じ、氏を擁護した。非核「4原則」はしかし、政治の世界を支配した。

冷戦期の日本の政治指導者は中曽根康弘氏を除けば、核問題に無知だった。すべて米国の〈核の傘〉任せで、「非核3原則」と〈核の傘〉が果たして調和するのか否かも考えなかった。極東の核戦略環境が激変した今日でも、無知、無関心、勘違いが続いている。この現状は問題である。

≪無関心、無知の克服が先決≫

極東の深刻な核環境にどう対処するかを決めるのは政治だ。その第一歩は「4原則」中の「議論せず」に決別し、活発な核論議を始めること。政治の無関心、無知の克服が先決で、無知のままいきなり独自核武装に飛びつくことではない。核武装して独立自尊心を満たしたつもりで安全を失ったのでは安保政策の本末転倒なのだ。その愚を避けるため、独立自尊回復と安全確保の両要素の最適配分比率を考えるべきで、核問題の多面的、多角的分析が必要である。

多面的、多角的分析とはどういうことか。(1)核問題で政治の決断能力と国民説得能力(2)決断実行のための財政コストと-核武装の場合には-技術的条件(3)国民の政治決断受容能力(4)決断実行のための対外的調整能力-などの分析と議論が最低、欠かせない。

分析と議論の結果と今後の核情勢の推移次第で核武装の選択もあり得なくはない。ただ、米国の〈核の傘〉継続の場合に比べ、「国民説得」と「国民の受容」にはともに巨大な精力が要求される。それがあるか。他方、〈核の傘〉継続では日本の独立自尊はないと嘆くのはおかしい。両者は二律背反ではない。非核日本が米国の希望なら、執拗(しつよう)に対米注文をつけ、いわばオーダーメードの〈核の傘〉の獲得を図ればよい。

核武装以外に独立自尊心回復の道なしとする精神論、すなわち「唯核論」には独断がある。真摯(しんし)かつ地道な非核通常防衛力の充実とそれに向けての国民教育こそが独立自尊への本道なのだ。内閣府世論調査は、それが国民の3分の2の気持ちだと教えている。政治は指し手順を誤ってはならぬ。

核武装選択の場合、覚悟すべき難作業が二つ。一に核拡散防止条約(NPT)との関係、二に様変わりするはずの日米関係の調整である。同条約は、日本を「つくらず、持たず」で縛っているが、「異常事態が自国の至高の利益を危うくしている」と判断すれば、その理由を述べて脱退は可能だ。とはいえ、主要非核国の条約脱退は空前絶後だろうから、猛烈な国際的波紋が予想されるし、寒々とした国際的孤立が待っているかもしれぬ。米国が「核兵器国・日本」に〈核の傘〉を提供し続ける保証もない。この問題でじゃんけんのやり直しは許されないのだ。(させ まさもり)

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