TPP賛成の谷内正太郎元外務次官の論文の紹介です。
前回に引き続く分で、これが最後です。
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日本の平和と繁栄に必要なTPPの加盟
日本は、第二次世界大戦での敗戦に際して、300万人の同胞の死という日本史上最大の悲劇を経験した。その日本が、わずか半世紀で今日の地位まで 復活したのは、独力による東アジアの覇権という幻想を捨てて、戦後、太平洋地域の二大先進民主主義国家であった日米両国を結び付けることによって、共産圏 にあったロシアや中国という大陸国家との間に、安定的な均衡を実現したからである。そして、米国が主導した自由貿易体制への加盟を果たし、製造業を主力に して対米・対欧市場への輸出を通じて、奇跡の経済復興を果たしたからである。
また、日本は、特に中曽根康弘総理以来、「西側の一員」としての立ち位置を明確にした。戦後、自由世界を主導したのは、米国を始めとする西側諸国で あった。日本は、中曽根総理の勇断によって、「西側の一員」として相応の指導的責任を引き受け、それにより、ヒトラーの同盟国、敗戦国、旧敵国という汚名 を雪ぎ、政治的な復権を果たしたのである。
にもかかわらず、日本では、依然として、時折、鬱屈した反米感情が噴き出すことがある。それは戦後に特徴的な現象ではない。かつて、日本は、日露 戦争の勝利に驕り、中国大陸への野心を剥き出しにし、1920年代の海軍軍縮時代の頃から、日本の台頭を抑えこもうとした米英両国に対して、悲憤慷慨とも いうべき強い感情的反発を見せるようになった。この驕りと反発が、真珠湾攻撃につながっていく。
敗戦後、近代日本の鬱屈した反米ナショナリズムは、反米・反安保のイデオロギー闘争の中に形を変えて流れこんだように見える。しかし、朝鮮戦争が 火を噴き、厳しい冷戦が始まったばかりの頃、吉田茂や岸信介などの政治家は、冷徹な戦略眼をもって国益を洞察し、荒れる世論に抗って、日米同盟を選択し た。それが日本の経済的復興と政治的復権を決定的にしたのである。
ところが、冷戦後期になると、日本人は、急速な高度経済成長に驕り始め、再び戦略眼を曇らせ始めたようである。日本人は、一方で、米国の庇護に依 存したまま自立への努力を忘れ、もう一方で、親分面をする米国の存在を「うっとうしい」と思い始めたのである。この米国への感情的な反発が、まるで戦前の 大東亜共栄圏を思わせるような、空虚なアジア主義への傾斜を生んでいる。だが、それは、幻想である。台頭する中国を前に、米国から切れた日本に付いてくる ような国など、どこにもいないのである。
21世紀の日本の平和と繁栄は、アジア太平洋という戦略的枠組みの中で、大国間の戦略的均衡を確保し、開放的な貿易体制を維持することによっての み可能である。それが、戦後日本の選択であった。そもそも、環太平洋経済圏という大構想は、アジアの経済的躍進が始まる前の70年代に、日本の大平正芳総 理と大来佐武郎外相が打ち出したものである。それが、今日のアジア太平洋経済協力(APEC)につながっていったのである。東アジア首脳会議(EAS) も、「ASEAN+3」の枠組みを牛耳ろうとした中国に対抗して、日本が、インドや豪州を引き込んで作ったものである。米国は当初、EASに消極的だった が、日本の説得の甲斐があって、漸く10年から、ロシアと共に参加することになった。
これまで、日本外交は、米国を引き込んで、環太平洋やアジア太平洋という枠組みで戦略を立てた時に成功し、東アジアの覇権や米国の排除を考えたと きに必ず失敗してきた。私たちは、この歴史の教訓を忘れるべきではない。環太平洋自由貿易構想を、戦略的観点から眺めれば、日本が飛び乗るべきバスである ことは自明であろう。徹底した自由貿易を標榜するTPPに加盟することは容易ではない。しかし、衰退した農業の問題などを克服するための国内政治の痛み は、新生日本を生み出すための痛みである。
閉塞感に鎖され、内向き、縮み志向に陥った日本はこの痛みを覚悟し、敢えて突破口を開いて局面を打開する強力なリーダーシップが必要である。菅直 人総理は、「歴史の分水嶺」という言葉をよく使う。分水嶺では、正しい方に滑っていかねばならない。反米感情に踊らされた戦略なきアジア主義は、逆に、日本を奈落の底に突き落とすことになるであろう。