2012年03月

 これまた遅かりしなのでしょうが、いま話題の書「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読み終えました。

 

 700ページもの大作です。すごくおもしろい内容です。作者の増田俊也氏の労作には心からの敬意を感じます。増田氏自身が北大柔道部の出身だそうで、柔道やその他の格闘技の実技に詳しいので、ことさらに読みごたえがありました。

 

  しかしこの大作を読み終えてまず感じたのは、全編を流れる陰鬱な基調でした。とにかく暗いのです。私も青春時代に精力を柔道に注いだのですが、だからこそ、この書に描かれた木村政彦という覇者の一生にやりきれないほどの暗さを感じたのか。あるいは木村政彦氏という人間の超人ふうなところに暗澹たる気分にさせられたのか。そのへんは不可解なままです。

 

 筋書きを詳しく紹介する必要はないでしょう。

 

 力道山V.S.木村政彦のプロレス試合の展開はすでに広く知られた事実です。だがその真相はどうだったのか。背後にはなにがあったのか。この書は柔道そのものについても多方面からの光をあて、歴史をさかのぼり、全世界をも俯瞰して、詳述しています。

 

 だがそれでもなんともいえない暗い気分とともに、なぜ? なぜ?という疑問が多く残ります。答えは浮かんできません。こんなところが本当に私の読後感なのです。

 

 

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
 
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出版社/著者からの内容紹介

昭和29年12月22日----。プロ柔道からプロレスに転じた木村政彦が、当時、人気絶頂の力道山と「実力日本一を争う」という名目で開催された「昭和 の巌流島決戦」。試合は「引き分けにする」ことが事前に決められていたものの、木村が一方的に叩き潰され、KOされてしまう。まだ2局しかなかったとはい え、共に生放送していたテレビの視聴率は100%。まさに、全国民注視の中で、無残な姿を晒してしまった木村、時に37歳。75歳まで生きた彼の、人生の 折り返し点で起きた屈辱の出来事だった。柔道の現役時代、木村は柔道を殺し合いのための武道ととらえ、試合の前夜には必ず短刀の切っ先を腹部にあて、切腹 の練習をして試合に臨んだ。負ければ腹を切る、その覚悟こそが木村を常勝たらしめたのである。約束を破った力道山を許すことができなかった木村は、かつて 切腹の練習の際に使っていた短刀を手に、力道山を殺そうと付けねらう。しかし、現実にはそうはならなかった......その深層は? 戦後スポーツ史上、最大の謎とされる「巌流島決戦」を軸に、希代の最強柔道家・木村政彦の人生を詳\xA1
細に描く、大河巨編!!
 

内容(「BOOK」データベースより)

昭和29年12月、活動の場をプロレスに移した木村政彦と、人気絶頂の力道山との一戦。「昭和の巌流島」と呼ばれ、視聴率100%。全国民注視の中、最強 柔道家は、力道山に一方的に潰され、表舞台から姿を消した。「負けたら腹を切る」という、武道家としての矜持を持っていた木村はなぜ、簡単に敗れたのか? 戦後日本スポーツ史上、最大の謎とともに木村の数奇な人生に迫る。『ゴング格闘技』大反響連載、待望の書籍化。
 
 
 
 
 

北朝鮮がミサイル発射実験の予告を発表しました。

 

北朝鮮はつい2週間ほど前に、アメリカとの合意でミサイル発射実験は当面、停止すると約束したばかりでした。

 

なのに一体どうしたことなのか。

 

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[ワシントン=古森義久]

北朝鮮のミサイル発射実験の予告発表について米国議会調査局で長年、朝鮮半島情勢を専門に研究してきたラリー・ニクシュ氏は16日、産経新聞に対し北朝鮮はこの実験で核弾頭のミサイルへの装備を一日も早く実現することを目的にしているとの見解を述べた。

 

現在は大手シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)の研究員を務めるニクシュ氏はまず北朝鮮の今回の発表について「1998年から2009年までの間の3回のミサイル発射実験と同様、北はこんどの実験でも核弾頭を小型化、軽量化して米国領土にも届く中距離あるいは准中距離の弾道ミサイルに装備することの一日も早い実現を目標としている」と述べた。

 

北朝鮮は98年、06年、09年の核弾道ミサイル発射実験のうち、最終回では打ち上げと飛行の第一、第二段階では成功し、降下段階では失敗した。北は今回も前回と同様に、衛星打ち上げを目的にあげているが、米側も国際社会もこの「打ち上げ」を実際の弾道ミサイルの発射実験と解釈しているが、ニクシュ氏は「北朝鮮自身、米側のそうした解釈は十二分に認識している」として、北は今回の活動がつい2週間ほど前に米国との間で成立させた「ミサイル発射の一時停止」合意に違反することは承知している、と語った。

 

ニクシュ氏は「今回の発表ではつい至近の米朝合意への違反となる行動をこれほど早く発表した点が最も意外だ」と述べ、その背景として「この不整合はいまの北朝鮮の集団的指導部に政策方向をめぐる意見の不一致や分裂があることを示唆しているとも受け取れる」と論評した。

 

同氏はまた「北朝鮮の軍部の強硬意見が強くなったともみられるが、指導部内でのこの種の意見の不一致をおさめられるほどには金正恩氏の力はまだ強くはない」と述べ、この不一致がこんごさらに大きな不安定を招く可能性をも指摘した。

 

同氏はさらに「北朝鮮指導部内では2009年春ごろから軍部の力が一段と強くなり、核兵器開発への動きが強まり、六カ国協議への復帰にも強い反対が表明されたようだ」と述べ、米国としてはこんご中国を含む関係各国に呼びかけ、北朝鮮の核兵器開発、とくに核弾頭装備のミサイル発射の実験を止めることを訴えていくだろうと、語った。

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やや遅かりしという感じもしますが、興味をひかれた書の紹介です。

 

歴史は一貫した流れですが、同時にこの時点の前と後とではあまりに多くのことが変わってしまったという特定の時期も存在することは明白です。それが「歴史の転換点」なのでしょう。

 

日本も世界もいま混迷と呼ぶのが最も適切な状態が続いています。

そんなときに、歴史をちょっと振り返り、世界がどんな曲線を描いて、ここまできたのか、俯瞰することも、一種のねぎらいを与えてくれます。

 

そんな思いで、改めて手にしたのがこの「1989年」という書でした。

 

 

 

 1989年は中国では天安門事件が起きて、人民のための軍隊が人民多数を殺すという事態が起きました。ソ連や東欧では共産党政権がつぎつぎに揺らぎ、崩壊へと向かいます。ベルリンの壁が崩れるのも、この時期でした。

 

日本では昭和天皇の崩御が1989年の最大の出来事だったといえるでしょう。

 

本書の著者は文藝春秋の名編集者から確か取締役まで務めた竹内修司氏です。かつて私もつたない雑誌論文の質の向上に指導をいただいたことが何度もあります。

 

本書の帯には以下の記述がありました。

 

「ある時代がここで終わり、今に続く何かが始まった」

 

なるほど、これが歴史の転換点ですね。

 

しかしこの分析は個人個人の人生の軌跡にも適用できる気がします。

自分の人生を振り返り、どの時期が転換点だったのか。これからまた転換点がくるのか。たとえば1989年に自分はなにをしていたのか、と回顧するのも、自分史の再考の第一歩かもしれません。

 

 これで止めを刺されたというべきでしょうか。

 

民主党政権の無責任バラマキ公約の象徴だった「子ども手当」がついに名実ともに、消滅しました。自民党時代の「児童手当」に戻るというわけです。

 

「子ども手当」に対してはこのブログでも反対論を再三、展開してきました。

 

これで一件落着というところでしょうか。

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児童手当復活! 自公高笑い

メインフォト

文書に署名後、民主党の前原誠司政調会長(中央)と握手を交わす自民党の茂木敏充政調会長(右)、公明党の石井啓一政調会長(左)=15日午後、国会内(酒巻俊介撮影)

 

記事本文

 「子ども手当」に代わる新手当の名称が15日、自公政権時代の「児童手当」に戻ることになった。自公両党は、民主党マニフェスト政権公約)の矛盾を浮き彫りにすることに成功し、してやったりだ。

 自民党茂木敏充政調会長は3党政調会長会談での合意後、要求していた年少扶養控除の復活も検討事項として付則に盛り込んだことについて「それぞれの主張が歩み寄る中で良い合意ができた」と満足げ。公明党の石井啓一政調会長も「主張通りになって大変良かった」と笑顔を見せた。

 

 石井氏はさらに「(民主党は)満額2万6千円と言っていたが、実態的に崩壊していた。(民主党マニフェストは)これで名実ともに崩壊した」と指摘した。

 自民党谷垣禎一総裁も15日の記者会見で「マニフェストが破綻しているのに、それを正面から認めないところに問題がある。往生際が悪かった」と強調。子ども手当の名称に固執し続け、今年度末ギリギリの決着になった民主党の対応を痛烈に批判した。

 今回の子ども手当崩壊を実績に、自公両党は共闘を強化し、マニフェスト破綻をさらに追及して野田政権を追い詰めたい考え。ただ、両党間の主張が食い違う衆院選挙制度改革や郵政民営化見直しなど難題が横たわり、「手放しで喜べない」(自民党中堅)との声も漏れる。

 あれほどの善意を全国民が示してくれた台湾です。

http://amd.c.yimg.jp/amd/20120306-00000001-maiall-000-1-view.jpg

 

   (日本への支援を実行した台湾各地の代表)

 

東日本大震災の後に台湾の人たちがどれほどの救援や支援の行動をとってくれたことか。

 
 しかしその台湾の代表にわが野田政権は人間として恩知らずの非礼の行動をとったのです。
 
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【主張】台湾への非礼 日本人として恥ずかしい
2012年03月14日 産経新聞 東京朝刊 総合・内政面

 政府が主催した東日本大震災の一周年追悼式典で、台湾の代表が指名献花から外されるという扱いを受けた。

震災で93の国・地域、国際機関から寄せられた義援金や救援物資は集計分で計175億円だが、これに含まれない台湾は単独で200億円超もの義援金を寄せた。日本政府の対応は、人から受けた恩を忘れない日本的精神からも恥ずべきものである。

台湾の代表は「民間機関代表」と位置づけられ、各国代表らに用意された会場1階の来賓席ではなく、2階の一般席に案内された。この問題が取り上げられた参 院予算委員会で、野田佳彦首相は「(台湾の人々の)お気持ちを傷つけるようなことがあったら本当に申し訳ない」と陳謝した。

しかし翌日の記者会見で、藤村修官房長官は「外交団という仕切りの中で整理され、外務省と内閣府で調整済みだった」と述べた。首相の謝罪を否定するかのような礼を欠いた説明だ。

昭和47年の日中共同声明によって日本は中国と国交を樹立し、台湾との外交関係は消滅した。藤村長官は参院予算委での答弁で、日中共同声明が「わが国の基本的立場」と述べたが、問題は台湾に対する日本政府の態度が過度に中国に配慮していることである。

共同声明は「日本国政府は、この(台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとする)中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重する」などとある。

これは文字通り、中国の立場を尊重することを意味しているが、一方で日本の独自の判断まで否定しているものではない。しかし、実態は中国の主張をそのまま受け入れる形になっており、もっと柔軟性を示してよい。

台湾では日本統治時代(明治28年~昭和20年)に教育を受けたいわゆる「日本語世代」を含め、日本に親近感を抱く人が少なくない。馬英九総統は東日本大震災発生の翌日に緊急援助金を発表したが、集まった義援金の大半は心がこもった個人の寄金である。

人口2300万人の台湾から日本への観光客は一昨年は138万人、震災の昨年でさえ114万人にものぼった。日本に支援を差し伸べてくれた隣人への非礼に対する謝罪の意を、政府はきちんとした行動で示すべきだ。それが、復興に向けたけじめである。

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