2014年05月

  集団的自衛権をめぐる論議についてです。

 

 アメリカから日本のこの状況をみると、どう映るのか。

 

日本ビジネスプレスでの私の連載コラムからの転載です。

 

原文へのリンクは以下です。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40679

国際激流と日本

「日本はモンスターなのか?」
集団的自衛権議論で表面化する“日本性悪説”日本を恐れているのは実は日本自身

 

 

                                +++++++++

 

 

 日本では憲法改正をめぐる論議でも同様の反応が顕著である。憲法9条を改正すると、日本は歯止めを失い、軍国主義に走り、他国への侵略を再開する、というような主張が堂々と述べられるのだ。しかも日本人自身によってである。

 

 日本はそれほど危険な国なのか。それほど自制のない国なのか。こうした疑問が起きるのは当然だろう。

日本性悪説に疑問を呈したセルフ氏

 そこで思い出されるのは、米国で開かれた日本の憲法改正に関するセミナーである。このセミナーにおける米国やイギリスの学者たちの意見の中に、まさにこの日本の特異性への面白い考察があった。

 

 2011年9月、ワシントンの「ウッドロー・ウィルソン国際学術センター」で「65年目の日本の“平和”憲法=変化の時か」と題されたセミナーが 開かれた。パネリストは日本の政治や法律、あるいは憲法一般を専門とするアメリカ人とイギリス人の学者4人だった。聴衆側にも専門家がいて、討論に加わっ た。

 

 パネリストたちがみな意見を一致させたのは、日本憲法9条の「国権の発動としての戦争の禁止」「戦力の不保持」「交戦権の禁止」などという規定 が、全世界の各国の憲法の中で極めて異端だという点だった。集団的自衛権の行使の禁止も、この9条の規定を根拠としている。こうした日本の憲法に対し、 「もうそろそろ改正の時期だ」という意見も出た。

 

 だが、その一方で「日本の軍国主義志向を考えると、憲法9条は今後もずっと必要だろう」という主張も表明された。「今の日本は、古代ギリシャの猛 将ユリシーズが柱に縛られた状態と言えるだろう」という声も出た。ギリシャ神話のユリシーズはオデュッセウスの別名で、世界を回り、異なる相手を次々に打 倒した戦いの名人だった。日本もそんな戦いの名人だから、常に縛っておかねばならない、というわけだ。

 

 その背後にあるのは、“日本性悪説”である。日本は国家も民族も潜在的、先天的に危険な軍事志向が強く、自衛のための軍事力も必ず侵略目的にそれを使うようになる、というような一方的な断定である。

 

(つづく)

 日本での集団的自衛権論議を外からみると、どう映るか。

 

 とくに集団的自衛権容認への反対論は自己矛盾と自己中心の塊として映るようです。

 

日本ビジネスプレスでの私の連載コラムからの転載です。

 

原文へのリンクは以下です。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40679

国際激流と日本

「日本はモンスターなのか?」
集団的自衛権議論で表面化する“日本性悪説”日本を恐れているのは実は日本自身

 

 4月の米国のオバマ大統領の訪日では、日本の尖閣諸島が日米安保条約の適用範囲に入ると言明したことが最大の成果とされた。万が一、尖閣諸島に中国のような第三国が軍事攻撃をかけた場合、米国は日本と協力してその防衛にあたると米国大統領が誓約したのだ。

 

 このオバマ大統領の言明を、日本のほとんど誰もが歓迎した。米国が集団的自衛権行使の意図を表明したことに対して、自国の集団的自衛権の容認には 反対する朝日新聞や公明党という勢力までが高く評価したのだ。

 

  だが、他国には集団的自衛権を行使してもらうことを切望する一方、自国の同じ権利の行使はそ の容認の構えさえも反対するのは、なんという矛盾であり、自己中心的な態度だろう。国家として、他からもらえるものは最大限にもらい、与えることはなにも しないというわけだ。

日本は侵略や攻撃をすぐに始める国なのか

 日本国内における集団的自衛権容認を巡る議論を見ると、反対派からの「暴走を防ぐ」「歯止めをかける」「危険を防止する」「前のめりを阻止する」というような表現が目立つ。

 

 では、それら「危険」「暴走」「阻止」「前のめり」といった言葉の対象は誰なのか。それは日本自身なのである。

 

 国家の防衛をめぐる論議であれば、防ぐべき対象は自国に対する外部からの脅威だろう。つまり、自国に侵略や攻撃をかけてくるかもしれない敵のこと である。「歯止め」や「阻止」という言動は、その外部の潜在敵に対してこそ向けられるべきであり、実際にどの国でもそのように捉えている。

 

 だが、なぜか日本では、「歯止め」や「阻止」の対象となる「危険」は日本自身なのである。

 

 これは、日本が日本自身を信用していないことを意味する。日本は、集団的自衛権の行使を解禁すると、外部に対しての危険な侵略や攻撃をすぐに始める、という認識である。

 

 国際的見地からすれば、主権国家が自国の防衛を考えるときに、まず最初に自国を潜在脅威、潜在危険と見なし、その自国の防衛能力をがんじがらめに縛ろうとする、というのは、なんとも異常な行動と言うしかない。

(つづく)

 いま白熱する日本の集団的自衛権論議は外国からどうみられるのか。

 

オバマ政権はすでに日本の集団的自衛権の解禁は歓迎の意向を明らかにしました。

 

しかし日本側の内部でなお反対の声が続いています。

 

その反対の理由はなんなのか。

 

そのへんの論議を国際的にみると、どうなるのか。

 

日本ビジネスプレスでの私の連載コラムからの転載です。

 

原文へのリンクは以下です。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40679

国際激流と日本

「日本はモンスターなのか?」
集団的自衛権議論で表面化する“日本性悪説”日本を恐れているのは実は日本自身

 日本は国際社会のモンスターなのか。いつまでも鎖につないでおかねばならない危険な犬なのか」――。

 

 米国の学者が日本の憲法上の自国防衛への制約について述べた言葉だった。この言葉はいま現在、日本で展開されている集団的自衛権の行使容認をめぐる議論への考察にも当てはまる。日本の防衛や憲法への日本自身の姿勢が外部の目にどう映るかという指針である。

 

 集団的自衛権は、自国の防衛や安全のため、あるいは国際的な平和維持や侵略阻止のために、他の国家と連帯して軍事行動を取る、という権利である。現在、日本以外のすべての主権国家が保有し、行使できることになっている

 

 集団的自衛権は国連の安全保障活動の基礎でもある。国連加盟の諸国が集団で平和維持のために軍事行動を取るという、国連のそもそもの存在理由だとも言えるのだ。

 

 しかし日本だけはこの集団的自衛権を「保有はしているが行使はできない」と見なしている。その理由は、憲法第9条だとされる。

米国の集団的自衛権行使に守られている日本

 日本が自ら集団的自衛権を拒むのだから、その権利とは一切無縁なのかというと、決してそんなことはない。日本の安全や平和は、同盟国の米国の集団的自衛権行使によって守られているのだ。日本はいわば集団的自衛権の全面的な受益者なのである。

 

 ところが日本自身の集団的自衛権の行使となると、一切「ノー」なのだ。同盟国のためにも、自国の安全にとって最重要な他国のためにも、あるいは国際平和の保持のためにも、日本だけは他の諸国と協力しての軍事行動はどんな場合にも取らないというのである。

(つづく)

 

ニューヨーク・タイムズが社説で異様なほどの安倍晋三首相攻撃を続けていることは周知の事実です。

 

ではなぜそんな攻撃を続けるのか。

 

どんな筆者が「安倍叩き」を実際に書くのか。

 

そのへんの実態に光をあてた長文の報告を書きました。

 

月刊雑誌WILLの最新号掲載の古森義久の論文です。

                

 その冒頭を紹介します。

 

[if gte mso 9]> Normal 0 0 2 false false false MicrosoftInternetExplorer4

[if gte mso 9]>

 

 「安倍晋三首相のナショナリズムは日米関係へのさらなる深刻な脅威となっている」(2014年3月2日)

 

 「安倍首相の歴史修正はアジア地域全体への危険な挑発だ」()

 

「安倍首相は日本の憲法の基礎を勝手に変えることに危険なほど接近している」(2014年2月19日)

 

「日本の危険なナショナリズム」(2013年12月27日)

 

「日本の危険なアナクロニズム(時代錯誤)(2013年12月18日)

 

 以上はアメリカの大手新聞ニューヨーク・タイムズが最近のほんの3ヶ月足らずの期間に社説で打ち出した主張である。とにかく安倍首相やいまの日本は「危険」だというのである。アメリカにとっての主要同盟国の日本がアメリカと共有する民主主義や法の支配という価値観に基づいて選んだ政治リーダーを、やつぎばやに「危険」「脅威」「挑発」というプロパガンダ的用語でけなすのだ。

 

 その論調には日本が戦後70年にわたり保ってきた堅固な民主主義、公正な法治、軍事を忌避する消極的平和主義、そして徹底した国際協調や人道主義の実績への配慮はツユほどもない。安倍首相が民主主義や人権尊重の信奉者だという明白な事実への認知もない。その意味では極端に偏向した事実認識に基づく糾弾である。

 

 ニューヨーク・タイムズは社説以外でも安倍首相あるいは安倍政権、ひいては安倍政権下の日本全体の動向をきわめて否定的に、ときには誹謗に近い言葉まで使って報道することが多い。

 

 しかし本稿では同紙全体のスタンスを代表する社説に焦点をしぼって、その「安倍叩き」、「日本叩き」の内容や背景を報告したい。「叩き」という短絡にも響く表現をあえて使うのは、同紙側の日本国やその政府に対する非難に独断と偏見をあらわにする情緒的な傾向が強いからである。

 

 本稿では同紙のそうした論調の背景として、日本国のあり方を一貫して非難してきた日本人学者が実はそれら社説での反日論評の責を委ねられていた、というショッキングな事実をも明らかにしたい。アメリカ大手紙の「日本叩き」「安倍叩き」は実は日本発、日本製だったという意外な側面の実態である

(つづく)

日本企業が中国へ、中国へと、草木もなびくというふうに、出ていったのはもう昔のことだといえそうです。

 

いまでは中国からいかに撤退するかに苦労する日本の会社やビジネスパンが急増しているようです。

 

日本企業は中国での生産活動やビジネス活動になぜ苦労するのか。

その実態を多角的に知らせてくれる良書を紹介します。

私も目を通して、なるほどなるほどと、うなずくこと多々でした。

 

編著者は高原彦二郎氏、中国での経済活動の実務の大ベテランです。

 

 

 

↑このページのトップヘ