2015年04月




【サイゴン陥落 ベトナム戦争終結40年】(下)幻想だった「人民の闘争」

1975年4月30日、南ベトナムの大統領官邸に突入した北ベトナム軍戦車と兵士(古森義久撮影)

 □ワシントン駐在客員特派員・古森義久

 サイゴン陥落の記憶は昨日の出来事のように鮮烈である。南ベトナム(ベトナム共和国)という国家が崩壊し、世界を激動させたベトナム戦争が終わった日 だった。いまはホーチミン市と名を変えた旧首都サイゴンでの4月30日の歴史の大動乱を目撃した記者として当時の体験を想起し、40年の流れを経てのいま の現実を直視するとき、身を切られるような教訓とあぜんとするような歴史の皮肉を痛感させられる。

 ◆ソ連製の戦車

 1975年のその日、サイゴンは朝から陰気な雨だった。市内は混乱の極だった。北ベトナム(ベトナム民主共和国)人民軍の大部隊が肉薄していることをだ れもが知っていた。南ベトナム軍のわずかに残った防衛線も破られ、空港も砲撃で破壊されていた。市民の大多数が恐怖に逃げまどい、水上からの国外脱出を 図っていた。「サイゴンを第二のスターリングラードとして死守する」と豪語していた南軍の将軍連の多くもすでに国外へ去っていた。

 午前10時すぎ、ラジオから重苦しい声が流れた。

 「ベトナム共和国軍はすべての戦闘を停止し~私たちはいま政府の実権移譲を討議するため革命政府代表との会見を待っている~」

 南ベトナム最後の大統領ズオン・バン・ミン将軍の事実上の降伏声明だった。だが北側の革命勢力は降伏を認めず、南の政権や国家自体を粉砕したのだった。

 私は自分で車を運転して市内の中心部を走り回った。ミン将軍の声明から1時間半余、雨があがったころ、市民の間から「うっ」といううめきのような声が出 た。北軍部隊が疾風のように市内へと突入してきたのだ。ソ連製の戦車や中国製の装甲車を先頭に精鋭の入城だった。長年の闘争に勝利した将兵たちの表情は歓 喜に満ちていた。南側の抵抗はもうなかった。

 北軍の最先鋒(せんぽう)はT54大型戦車でサイゴン中心部の大統領官邸の鉄門をぶち破った。いかにも歴戦にみえる兵士たちが3階建ての官邸内へと走り 入った。私はその1時間後には同じ建物内に入って、各階をくまなく観察できた。北軍将兵は外国報道陣には慎重に対応し、取材を阻まなかった。

 2階の一室に20人ほどの男たちが座っていた。無言でうつむき、こわばった表情だった。南ベトナム政府の閣僚だった。北軍の武装兵士が脇に立つ。降伏した政治家たちの拘束だった。勝者と敗者の対照を絵にしたような情景だった。

 ◆メディアの罪

 私はサイゴン陥落を中心とする4年に近いベトナム駐在で日本のメディアや識者の大多数が犯したベトナム戦争の本質への誤認をいやというほど知らされた。日本の国際情勢認識がいかに大きな錯誤へ走りうるかという痛烈な教訓だった。

 第1は戦争の基本構図を「米国の侵略へのベトナム人民の闘争」と断じた誤認だった。現実には南ベトナム国民の大多数は米軍の支援を求め、米国に支えられ た政権を受け入れていた。しかも米軍はサイゴン陥落の2年前に全面撤退し、その後は北と南と完全にベトナム人同士の戦いだった。米国はその間、南政府への 軍事援助さえ大幅に削った。

 第2はこの戦争を民族独立闘争としかみず、他の支柱の共産主義革命をみないという誤認だった。この闘争はすべて共産主義を信奉する北のベトナム労働党 (現共産党)が主導し、実行した。だが日本では「米軍と戦うのは南ベトナムのイデオロギーを越えた民族解放勢力で、北の軍隊は南に入っていない」という北 側のプロパガンダを受け入れた。

 第3は「米国とその傀儡(かいらい)さえ撃退すれば戦後のベトナムはあらゆる政治勢力が共存する民族の解放や和解が実現する」という北側の政治宣伝を信 じた誤認である。現実には戦後のベトナムは共産党の独裁支配となり、それになじまない南ベトナムの一般国民はその後、なんと20年にもわたり数百万が国外 へ脱出した。

 しかしサイゴン陥落から40年、米国と国交を樹立してから20年の現在のベトナムは中国の脅威のためか米国の軍事支援を熱心に求めるにいたった。

 経済面でも米国式の市場経済を規範とする環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の中核メンバーとして対米協力に熱を注ぐ。米国の政策や価値観をすべて邪悪として「抗米救国」の闘争を進めた、あのベトナムからすれば現状は壮大な歴史の皮肉ともみえてくるのである。

                   ◇

【プロフィル】古森義久

 こもり・よしひさ 慶応大卒。毎日新聞サイゴン特派員としてベトナム戦争を取材。産経新聞でロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長など歴任。現在、麗澤大学特別教授も務める。


4月29日のNHKテレビで記者たちの座談会をしていました。

「安全保障法制を問う」というタイトルです。

安倍首相の訪米や日米防衛指針の改定などを背景に日本の安全保障状況の修正の是非を論じるという趣旨で
す。

数人のNHK記者たちの討論でした。

その途中で、視聴者に安倍政権による集団的自衛権の行使容認に賛成ですか、反対ですか、と意見を問う
作業がありました。

その結果、しばらくして、集団的自衛権の行使容認には賛成が46%、反対が44%という数字が伝えられました。

この種の日本の安全保障論議ではNHKは伝統的に一国平和主義の傾向が強く、日米同盟の強化や日本の防衛の強化には、おおむね反対や難色の意見を手を変え、品を変えて、述べてきました。

だから視聴者の意見が賛成が反対より多かったのは、NHK記者たちには意外、心外だったようです。

そのとおり、記者の一人が上記のこの結果をみて、即座に「これは普通の世論調査とは違いますので」と述べた
のには笑わされました。

大々的に調査をしながら、自分たちの期待と異なる結果が出たとたんに、これはたいした調査ではない、という趣旨のコメントを述べる。

幼児的ないやいや、として響きました。

これからもNHKの偏向報道には気をつけましょう。



.政治  投稿日:2015/4/27

[古森義久]【謝罪しなかった岸信介首相】~1957年米議会での演説、万雷の拍手~


古森義久(ジャーナリスト/国際教養大学 客員教授)

「古森義久の内外透視」

執筆記事プロフィールBlog

安倍晋三首相がいよいよアメリカを公式訪問する。その訪米ではオバマ大統領との首脳会談に加えてアメリカ議会上下両院合同会議での演説がハイライトとなる だろう。その演説内容については中韓両国とアメリカの一部から日本の過去の「侵略」や「植民地支配」への「お詫び(謝罪)」を具体的に述べることへの要求 が伝えられる。


だが戦後から遠くない1957年の岸信介首相のアメリカ議会での演説では過去の戦争へのその種の言及はまったくなかったという事実の意味は大きいといえよう。日米両国の間ではその時点ですでに戦争についてのやりとりは清算されていたようだからだ。


日本の首相のアメリカ上下両院合同会議での演説は初めてとなる。しかし日本の首相が上下両院のうちのひとつで演説したことはすでに3回ある。1954年の吉田茂首相の上院での演説、1957年の岸信介首相、1961年の池田勇人首相のいずれも下院での演説である。


そのうちの岸氏の演説はとくに注視に値する。日米間の激しい戦争が終わってまだ12年しか過ぎていない時点だったのにもかかわらず、戦前、戦中という過去への言葉はまったくなかったからだ。岸首相の演説の主要部分は以下のようだった。


「日本は、真に民主主義に立脚した強固な政治の基礎を築くため、誇りと固い決意を持って邁進(まいしん)している。個人の自由と尊厳を基礎 とする民主主義の高遠な原則を信奉し、国を挙げてこの使命達成に全力を傾倒している」


「われわれの自由世界との関係では米国との提携こそ最も重要である。米国から受けてきた援助に感謝している。世界各地で緊張が存続する現状では、日米両国の友好関係、相互の尊敬と信頼、さらに両国間の協力のきずなは、いよいよ強固でなければならない」


「国際共産主義はアジア人の熱烈な民族主義を利用し、貧困と欠乏を克服しようとするアジア人の焦慮に訴えて、アジアを席巻しようと企図している。われわれは共産主義者の説くところは間違っており、民主主義によってこそ人類の繁栄と福祉が得られると固く信ずる」


「アジアの最も進歩した工業国である日本は、共産主義者の言う近道ではなく、経済的、社会的発展を達成しうるという事実を、すでに示してきた。つま り、自由経済こそ、人間の尊厳を立派に保持しながら、人類の幸福と福祉に貢献することを立証してきたのだ。日本は、自由世界の忠実な一員として、特に自由 世界が国際共産主義の挑戦を受けているアジアで有効にして建設的な役割を果たし得ると固く信じる」


「私は米国大統領の招待に応じ、日米両国がともに関心を持ち、利害を有する広範な諸問題について、米国の最高首脳部と、率直な意見の交換を行うた め、今回、米国を訪れた。今回の会談を通じ、強固にして恒久的な日米両国間のパートナーシップが生まれ、そこから日米関係の新時代の扉が開かれるもの、と 信じる」


岸首相の演説は上記がほぼすべての短い内容だったが、途中、議員たちの大きな拍手で6回も中断され、最後の拍手は60秒も続いたのだった。そしてその内容は過去の日米間の戦争にはまったく触れていなかったのである。


であるのに、その岸演説から58年後のいまになって、その「過去」が「歴史認識」というような表現で主張されるという事実は、アメリカでの日本にか らむ歴史問題というのはアメリカ自体ではなく、そこを舞台にした中国系や韓国系の政治勢力によって植えつけられ、煽られてきたことを改めて示すのではなか ろうか。


こんな記事を書きました。

Japan In-Depth からです。

[古森義久]【安保法制の背後にある憲法の特殊性】~9条に込められた占領米軍の意図~


古森義久(ジャーナリスト/国際教養大学 客員教授)

「古森義久の内外透視」


執筆記事プロフィールBlog

 日本の安全保障政策がいよいよ大きく変わろうとしている。だがその政策を中国や北朝鮮の軍事脅威が高まる現実に対応して実効性を持たせようとする動きは憲 法第9条の制約にどうしてもぶつかる。自国防衛のための戦力の保持や行使にも大きなブレーキをかける日本国憲法の特殊性である。その特殊性を理解するには 憲法の起源を知ることが欠かせない。


 私はおこがましいが日本国憲法を起草した当事者に直接に話を聞いた数少ない日本人ジャーナリストである。相手は憲法起草当時の1946年2月に日本 を占領していた米軍総司令部(GHQ)民政局次長チャールズ・ケーディス陸軍大佐だった。


 周知のように日本国憲法は同年2月はじめの10日間にケーディス 大佐を実務責任者とする米軍当局者10数人により東京のGHQ(現在の第一生命ビル)内で書かれたのだ。この事実を憲法改正に反対する現憲法死守派はふし ぎなほど指摘しない。


 私はケーディス氏には1981年4月に会った。当時、私はアメリカの研究機関「カーネギー国際平和財団」の上級研究員として日米安保関係の研究をし ていた。ケーディス氏は当時、なおニューヨークの大手法律事務所で弁護士として働いており、憲法起草の体験を詳しく語ってくれた。4時間ほどのインタ ビューとなった。


 そのケーディス氏の言葉で強く印象に残ったのは、占領米軍側の日本の憲法作成の最大の目的が「日本を永遠に非武装のままにしておくこと」だったとい う点だった。とくに憲法第9条がその米側の意図の集約だったというのである。


 「戦争の放棄」「交戦権の不保持」「戦力や陸海空軍の不保持」など9条は本来 のアメリカ案では「日本の自国の防衛にもそれらの禁止は適用される」となっていた、というのだった。さすがに自国の防衛のための戦力も戦争も禁止という条 項はケーディス氏の法律専門家としての判断で削ってしまったとのことだった。


 だが当時の占領米軍の側の意図は明白だった。戦争で示された日本の軍事能力のいかなる再現をも恐れて、日本を永遠に軍のない国にしようとしたのだ。 軍とは主権国家の存立や利害を守るための物理的な手段だといえる。


 政治、外交、協議、譲歩など非物理的な手段が機能しなかった際の最後の手段であり、いま の世界ではどの主権国家も当然の権利としてその手段を保有している。だが日本国憲法は米軍の意向により、戦後の日本からはその究極の手段をも奪おうと企図 されたのである。


 これからの憲法改正論議でも提起されねばならない「いまの日本国憲法とはなにか」の基本的の歴史的な事実だといえよう。


以下のような記事を書きました。

日本ビジネスプレスからです。

安倍首相の米議会演説に米国でエールの声

「戦時の謝罪は必要ない、日米同盟の実績を訴えよ」

2015.4.15(水) 古森 義久
 
安倍首相、米両院合同会議で日本首脳初の演説へ

安倍晋三首相は4月29日に日本の首相として初めて米上下両院合同会議で演説する。写真は都内で開かれた国連創設70周年記念シンポジウムで演説する安倍首相(2015年3月16日撮影)。(c)AFP/KAZUHIRO NOGI〔AFPBB News



 安倍晋三首相の米国議会での演説に日本の戦争行動への謝罪は期待しないという向きが米国には確実に存在する――ワシントンの米国議会を実際に取材 して、こんなことを痛感させられた。戦時の過去よりも戦後の日本の実績を優先して語ってほしいという議会側の意向を直接聞かされたのだ。


「安倍首相は、米国議会での演説について米側からの助言は特に必要としないでしょう。何を述べるべきか、彼自身に適切に判断する能力が十二分にあるからです」


 ジム・タレント前上院議員は強い口調で答えた。まず、この発言が新鮮に響いた。安倍首相が4月29日に米国連邦議会上下両院合同会議で日本の首相としては初めて演説を行う。その演説に関する「米国側からの要望」があれこれ伝えられていたからである。


 オバマ政権周辺やリベラル系の米側日本問題専門家たちが安倍首相に「侵略」や「植民地支配」への反省や戦争への「謝罪(お詫び)」を議会演説で述 べることを求めるという情報が、日本の大手メディアでしきりに流されてきた。そこで強調されていたのは「村山談話の効用」だった。


 だがタレント前上院議員は、米側がそもそも安倍首相に演説の内容についてあれこれ求めるべきではない、なにも助言することはない、という趣旨を語ったのである。

(つづく)

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