■【サイゴン陥落 ベトナム戦争終結40年】(下)幻想だった「人民の闘争」
1975年4月30日、南ベトナムの大統領官邸に突入した北ベトナム軍戦車と兵士(古森義久撮影) |
□ワシントン駐在客員特派員・古森義久サイゴン陥落の記憶は昨日の出来事のように鮮烈である。南ベトナム(ベトナム共和国)という国家が崩壊し、世界を激動させたベトナム戦争が終わった日 だった。いまはホーチミン市と名を変えた旧首都サイゴンでの4月30日の歴史の大動乱を目撃した記者として当時の体験を想起し、40年の流れを経てのいま の現実を直視するとき、身を切られるような教訓とあぜんとするような歴史の皮肉を痛感させられる。
◆ソ連製の戦車
1975年のその日、サイゴンは朝から陰気な雨だった。市内は混乱の極だった。北ベトナム(ベトナム民主共和国)人民軍の大部隊が肉薄していることをだ れもが知っていた。南ベトナム軍のわずかに残った防衛線も破られ、空港も砲撃で破壊されていた。市民の大多数が恐怖に逃げまどい、水上からの国外脱出を 図っていた。「サイゴンを第二のスターリングラードとして死守する」と豪語していた南軍の将軍連の多くもすでに国外へ去っていた。
午前10時すぎ、ラジオから重苦しい声が流れた。
「ベトナム共和国軍はすべての戦闘を停止し~私たちはいま政府の実権移譲を討議するため革命政府代表との会見を待っている~」
南ベトナム最後の大統領ズオン・バン・ミン将軍の事実上の降伏声明だった。だが北側の革命勢力は降伏を認めず、南の政権や国家自体を粉砕したのだった。
私は自分で車を運転して市内の中心部を走り回った。ミン将軍の声明から1時間半余、雨があがったころ、市民の間から「うっ」といううめきのような声が出 た。北軍部隊が疾風のように市内へと突入してきたのだ。ソ連製の戦車や中国製の装甲車を先頭に精鋭の入城だった。長年の闘争に勝利した将兵たちの表情は歓 喜に満ちていた。南側の抵抗はもうなかった。
北軍の最先鋒(せんぽう)はT54大型戦車でサイゴン中心部の大統領官邸の鉄門をぶち破った。いかにも歴戦にみえる兵士たちが3階建ての官邸内へと走り 入った。私はその1時間後には同じ建物内に入って、各階をくまなく観察できた。北軍将兵は外国報道陣には慎重に対応し、取材を阻まなかった。
2階の一室に20人ほどの男たちが座っていた。無言でうつむき、こわばった表情だった。南ベトナム政府の閣僚だった。北軍の武装兵士が脇に立つ。降伏した政治家たちの拘束だった。勝者と敗者の対照を絵にしたような情景だった。
◆メディアの罪
私はサイゴン陥落を中心とする4年に近いベトナム駐在で日本のメディアや識者の大多数が犯したベトナム戦争の本質への誤認をいやというほど知らされた。日本の国際情勢認識がいかに大きな錯誤へ走りうるかという痛烈な教訓だった。
第1は戦争の基本構図を「米国の侵略へのベトナム人民の闘争」と断じた誤認だった。現実には南ベトナム国民の大多数は米軍の支援を求め、米国に支えられ た政権を受け入れていた。しかも米軍はサイゴン陥落の2年前に全面撤退し、その後は北と南と完全にベトナム人同士の戦いだった。米国はその間、南政府への 軍事援助さえ大幅に削った。
第2はこの戦争を民族独立闘争としかみず、他の支柱の共産主義革命をみないという誤認だった。この闘争はすべて共産主義を信奉する北のベトナム労働党 (現共産党)が主導し、実行した。だが日本では「米軍と戦うのは南ベトナムのイデオロギーを越えた民族解放勢力で、北の軍隊は南に入っていない」という北 側のプロパガンダを受け入れた。
第3は「米国とその傀儡(かいらい)さえ撃退すれば戦後のベトナムはあらゆる政治勢力が共存する民族の解放や和解が実現する」という北側の政治宣伝を信 じた誤認である。現実には戦後のベトナムは共産党の独裁支配となり、それになじまない南ベトナムの一般国民はその後、なんと20年にもわたり数百万が国外 へ脱出した。
しかしサイゴン陥落から40年、米国と国交を樹立してから20年の現在のベトナムは中国の脅威のためか米国の軍事支援を熱心に求めるにいたった。
経済面でも米国式の市場経済を規範とする環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の中核メンバーとして対米協力に熱を注ぐ。米国の政策や価値観をすべて邪悪として「抗米救国」の闘争を進めた、あのベトナムからすれば現状は壮大な歴史の皮肉ともみえてくるのである。
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【プロフィル】古森義久
こもり・よしひさ 慶応大卒。毎日新聞サイゴン特派員としてベトナム戦争を取材。産経新聞でロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長など歴任。現在、麗澤大学特別教授も務める。