2016年06月


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英国のEU離脱、米国では「よくやった」の声も

改めて問われるEUの存在意義

2016.6.29(水) 古森 義久
英国民投票、離脱派勝利は反エリート主義者たちの反乱、専門家

デービッド・キャメロン首相の辞意を報じる英国の新聞の一面(2016年6月24日撮影、資料写真)。(c)AFP/Daniel SORABJI〔AFPBB News

  

 英国が国民投票でEU離脱を決めたことに対して、米国の一部では「英国が民主主義によって国家主権の回復を果たした」として歓迎する意見が登場し始めた。


 経済や金融の観点からだけ見るのではなく、英国があくまで独立した主権国家として自国民の意思でEU離脱を決めたことを評価し、「米国は英国と“特別な関係”を改めて強化すべきだ」と主張している。


 米国政府は英国のEU離脱には明確に反対する立場をとってきた。オバマ大統領も、英国がもし離脱する場合、米国との貿易交渉などで「行列の末尾に並ぶことになる」と警告していた。産業界でも経済界、金融界を中心に英国のEU離脱に反対する声が強かった。


 しかし一方で、この数日の間に、米国内の保守派を中心に「英国がEUを離脱したのは、むしろEUの専横や硬直性に原因がある。英国は今回の選択によって主権国家としての独立を取り戻した」と評価する声が聞かれるようになってきたのである。


 この背景にあったのは、米国のEUへの不信感だ。つまり、EUの経済政策が社会主義的な方向に動き、安全保障でも米国から離れつつあることへの不信感が米国で広まっていた。

(つづく)

.国際  投稿日:2016/6/25

朝日新聞若宮啓文氏を悼む その5 見事な“反面教師”朝日新聞に問う



古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)

「古森義久の内外透視」


私は以上のような若宮啓文氏への批判や質問の記事類を長年にわたり書いてきた。しかるべき公開の場で発表してきた。朝日新聞では主筆や論説主幹とい えば、ともに新聞の論調をつかさどる責任者である。だから若宮氏の在社中は私は同氏の名前をあげて、その名で発表した紙面上の記事に対して疑問や批判を呈 してきた。明確な質問状と呼べる雑誌の論文もあった。


しかし残念ながら若宮氏は私の批判には反応してくれなかった。一度だけ若宮氏が東京都内の大学での講演会で私の名前をあげて、反論めいた発言をした という簡単な記録がインターネットに載っていた。だがそれだけだった。しかしやはり私の批判は知っていたことだけは確認できた。


若宮氏が亡くなった今、私がこうして追い打ちのような批判めいた一文を書くことも死者の霊に鞭打つような非礼な面があるかもしれない。しかし今の私の一文はあくまで朝日新聞の言論の代表だった若宮氏への批判であり、朝日新聞そのものへの問いかけだともいえる。


若宮氏のコラム記事などに対して表明した「情緒の過多と論理の欠落」「論敵の悪魔化」「現実の無視と歴史の悪用」「日本という概念の忌避」そして「日本不信」という特徴はそのまま朝日新聞全体の長年のあり方にあてはまるからだ。


だから私がここで書いてきた指摘の数々も、とくに若宮氏だけに限らず、朝日新聞全体の言論性に責任を有する人であれば、他のどなたにでもぶつけたい公開質問状に等しいといえる。


ただし最近、一度だけ、私は若宮氏のジャーナリストとしての身の処し方を論評する機会があった。2012年5月に週刊文春が若宮氏が論説主幹だったときの中国出張をめぐる状況を醜聞ふうに取り上げた際、同じジャーナリストとしての感想を求められたのだ。


私は、彼のその中国訪問の経費や同行者にはなんの知識も関心もなかったので、その部分へのコメントは差し控えたが、その訪中の理由が「中国政府関連団体が若宮氏の著書の出版記念パーティーを開くために同氏を招いた」とされていた点には驚いたので、自分の考えを述べた。


中国政府といえば、世界でも最悪の言論弾圧機構そのものである。政府関連団体も共産党の指令で動く一枚岩の組織である。言論の自由を最大に尊重する はずの日本の言論人がその言論弾圧機関から自らの言論活動を祝ってもらうために、わざわざ中国にまで出かけていくというのは気味の悪いジョークのように思 えた。だからそのとおりの感想を述べたのだった。


若宮氏の訃報が載った朝日新聞は「若宮さんと交流の厚かった趙啓正・元中国国務院新聞弁公室主任(閣僚級)からの悼みの言葉」をも掲載していた。趙 啓正氏といえば中国共産党の対外宣伝の大物であり、私が北京に駐在していた時期は現役のばりばりとして内外のメディアを監視し、統制していた。こういう人 物と親しく、気に入られるというのは若宮氏の人柄や人徳のせいかもしれないが、少なくとも私には考えられない「交流」だと感じた。


ここであえて繰り返すが、若宮氏への追悼の思いに素直に駆られて書き始めたこの文章も生前の同氏の言論への批判がほとんどとなったが、彼個人の言論だけの批判では決してないのである。批判の対象はあくまで朝日新聞全体なのだ。


私は朝日新聞の特殊な傾向については遥か昔から体験し、目撃し、指摘し、批判してきた。その考察は単行本だけでも『朝日新聞の大研究』(稲垣武、井 沢元彦両氏との共著 2002年、扶桑社)、『朝日新聞は日本の「宝」である』(2014年、ビジネス社)、『なにがおかしいのか? 朝日新聞』(2014年、海竜社)と、3冊によって発表してきた。


このうちの一冊で朝日新聞を皮肉にせよ、「日本の宝」と呼んだのは、わが日本が国の運命を左右する分岐点に立ち、選択に迷ったときは、朝日新聞の主張をみて、その正反対の道を選べば、だいたいは成功するから、「宝」としての価値があると主張したことが理由である。


日本が戦後の独立を果たすとき、朝日新聞はソ連や共産圏諸国を含めた相手との「全面講和」でなければだめだと主張した。日本はその道とは反対の「多数講和」の道を選んで戦後の平和や繁栄を得た。


日米安保条約に対しても朝日新聞は事実上の反対という立場をみせた。だが日本は日米安保条約を結んで、機能させ、戦後の平和と安定を得た。戦後の日 本にとっての二つの最大の選択に関して朝日新聞は見事な反面教師となったわけである。日本の国家と国民が朝日新聞の求める選択肢を拒んだことによる戦後の 日本の飛躍だったともいえる。


日本は今やまた憲法改正や安全保障政策の根本的改変など大きな選択を迫られつつある。朝日新聞はその改変への反対キャンペーンを打ち上げている。日 本が日本らしく、そして国家らしく進もうとすることへの激しい反対だともいえる。そんな体質の朝日新聞の主張を最近までのある時期、代表してきたのが若宮 啓文氏だった。


だから私のこの一文は若宮氏個人への批判ではなく彼が代表した朝日新聞全体への問いかけだとみなすのが自然に思える。とはいえ68歳で唐突に逝った 若宮氏にはまだまだ活躍してほしかった。私の質問状にも答えてほしかった。だがその機会はついに得られなかった。若宮啓文氏のご冥福を心からお祈りした い。

.国際  投稿日:2016/6/21

朝日新聞 若宮啓文氏を悼むその1 旅に病んで夢は・・・


古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)

「古森義久の内外透視」


朝日新聞の主筆だった若宮啓文氏が亡くなった。旅行先の北京のホテルでの病死だったという。旅先での孤独な死だったのだろう。

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

芭蕉のこの句がふっとよぎった。ご本人にもご遺族にもなんとも寂しい旅立ちだったことだろう。


もう40年も前のベトナム戦争中、熱帯病に襲われ、現地で治療してくれた旧日本軍の軍医からこの句をつぶやかれた自分自身の不安を想起して、若宮氏の最期の心情を想った。


若宮氏ときちんと顔を合わせて語りあった体験としては2001年のワシントンでの夕食会が思い出される。アメリカで9.11の同時多発テロがあった年である。2001年でもまだそのテロが起きていない前半の時期だった。


当時の若宮氏は日本国内で朝日新聞の政治記者や政治部長として活動し、韓国のソウルに留学して、アジア問題にかかわるようになった後、ワシントンの大手シンクタンクのブルッキングス研究所で客員研究員として研修していた。


私も日本国内では毎日新聞の政治部記者だったことがあり、若宮氏とはすでに面識はあった。だから2001年の時点でも彼と顔を合わせれば、挨拶を交わしていた。彼はいつも礼儀正しく、穏和な挙措の人だった。こちらも丁寧に対応していたつもりである。


そんな時期にワシントンの日本大使館の公使邸に夕食に招かれた。たまたま訪米中の政治家の塩川正十郎氏が主賓だった。自民党の政権ですでに内閣官房 長官や文部大臣を歴任し、その後の小泉純一郎内閣で財務大臣になる塩川氏には私は東京での取材活動で知己を得ていた。だからワシントンで声をかけてくれた のだろう。その席に若宮氏もいたのだ。


彼もベテラン政治記者として当然、塩川氏をよく知っていた。この一席を設けた公使は塩川氏に仕えた経験があり、なおかつ若宮氏と高校が同じの友人だったという記憶がある。


塩川氏はこの席で大いに語った。もちろん政治がらみの話だが、ユーモアを交えて、おもしろく楽しい内容が多かった。内閣官房長官として内閣機密費をいかに議員たちに渡したかなど、びっくりするほどなまなましい経験談をも語ってくれた。若宮氏も私も熱心に耳を傾けた。


このころは私は若宮氏が記者として書く記事をとくに意識もしていなかった。だから終始、友好的に接した。塩川氏が話を終えて席を立ったとき、若宮氏と顔をみあわせて「よくあそこまで話しましたね」とうなずきあったことを覚えている。


それ以来、ワシントンで若宮氏と出会うたびに言葉を交わし、彼が産経新聞ワシントン駐在編集特別委員としての私のオフィスに訪ねてきたこともあっ た。だから個人としての若宮啓文氏には親近感とさえ呼べる温かい思いさえ抱いていたといえる。その彼が中国の旅の宿で一人、客死したとの報には素直に胸が 痛んだのだった。


しかしワシントンで私とのなごやかな接触があった時期の後の若宮氏は朝日新聞を代表する論客として活発な筆をふるうようになっていった。2002年9月から朝日新聞の論説主幹となり、5年半以上にわたり朝日の主張を世に出す代表的な発信者となったわけだ。


若宮氏が朝日新聞の論説主幹として、さらにはその後の2011年5月以降は朝日新聞主筆として、発表し続けた主張や論評のほとんどに対して私は反対だった。単なる朝日新聞と産経新聞のスタンスの違いなどという次元の反対ではなかった。


私が歳月の上、さらには取材対象の範囲の上では新聞記者として若宮氏よりは少なくとも量的には長く多い経験を積んできた結果、自然と築いてきた国際 情勢への認識、日本という国のあり方への思考からして若宮記者の唱える主張、さらにその背後にそびえる朝日新聞的論調には根本から反対だった。


若宮氏個人にはなんの批判も敵意もないのは前述のとおりだが、彼が朝日新聞に発表する評論類には私は正面から反対を述べ、論争を挑んだ。産経新聞の自分のコラムでもそれを試みた。さらにそのころ産経新聞が始めた「iza!」という名の記者ブログでもより頻繁に書いた。


産経新聞が管理しながらも私自身が自由に筆をふるえるし、編集もできるその記者ブログには私は「ステージ風発」という名前をつけた。談論風発の「風発」だった。その場でも若宮氏の署名記事を取り上げ、反論を書いたのだった。


その2に続く。全5回。毎日11:00に配信予定。この記事は雑誌「WILL」2016年7月号からの転載です)

国際  投稿日:2016/6/15

催し物は映画やアニメばかり 日本の対米発信の実態 その1



古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)

「古森義久の内外透視」


日本にとって外部世界への発信がますます重要になってきたことは言を俟たない。日本側の厳然たる事実を事実として国際的にきちんと主張しなかったた めに日本の国家にとっての、さらには国民にとっての利益や評価が傷つけられた実例は数多い。中韓両国や国連のような外部勢力からの虚構の非難を正面から否 定しなかったために、日本全体が数世代にわたり濡れ衣を着せられることになった事例もある。慰安婦問題などはその氷山の一角である。


日本のその対外発信ではアメリカに向けてのメッセージの伝達の必要性がとくに重みを持つ。超大国としてのアメリカの政策や世論は全世界に影響を発揮 する。日本の同盟国としてのアメリカの比重も大きい。アメリカは言論の自由な国だから外国からのアピールも政府・議会やニュースメディアや一般国民にいた るまで直接に届かせることができる。


だからなにをどのようにアメリカに向かって発信するかは日本だけでなく他の多くの諸国にとっても超重要な意味を持つ。極端な場合、アメリカへの発信の成否が発信国の運命を左右することさえある。

こうした前提を踏まえたうえで、まず日本の対アメリカ発信の現状を眺めてみた。

「盆栽フェスティバル」

「落語、カナダ出身の桂三輝の登場」

「アニメ映画『思い出のマーニー』上映」

「ドキュメンタリー映画『夢と狂気の王国』上映」

娯楽性の強い行事ばかりがずらりと並ぶ。みな2016年4月から5月にかけての最近の催しである。主催はアメリカの首都ワシントンの中心街に位置す る立派で広壮な建物の「日本情報文化センター(JICC)」である。日本政府直轄の機関、より具体的には日本国外務省の組織であり、ワシントンの在米日本 大使館の一部でもある。


JICCの任務は日本政府からの対アメリカ発信である。「アメリカ一般に日本へのよりよい理解を促進し、日本についての広範な情報やイベントを提供 することで日本の文化をも促進する」と記されているように、日本についての幅の広い情報を伝えることがその活動の主目的とされる。単に文化だけでなく日本 の実態や思考をアメリカ側、とくにその首都の官民に知らせること、つまり対アメリカ発信がその存在理由だといえよう。対象は超大国の首都の官民だからとく に日本側のその任務は重要となる。


その発信内容はJICCの名称自体に「情報文化」とあるように、まず日本について、あるいは日本側からの情報が主であり、文化は従だろう。JICCの内部にはその種の広報活動のための大きな講堂もあるし、討論や会議のできるラウンジふうの空間もたっぷりある。


だが私のワシントンでの長い駐在での観察では、日本政府の対米発信センターであるこの公的機関の活動はあまりに偏っているといわざるをえない。映 画、アニメ、日本語、落語、和食などという娯楽性の強いプログラムの実施に専念しているのだ。ことに最も安易な映画上映というイベントがあまりに多く、ま るで日本政府直営の映画館のようにさえみえるのだ。


ここ数年のそうした偏重傾向がとくに激しい。日本の政府として、あるいは国民として同盟相手の超大国アメリカの官民に向けて発し続けねばならない歴史問題や領土問題についての発信は皆無なのだ。

日本政府にその種の日本側の国益の核心にからむメッセージをアメリカに向けて発信する他の機関があるのならば、JICCの映画館化もまだ弁解が立つ だろう。だがそんな機関は存在しない。実情はむしろ逆なのだ。アメリカ側に向けて日本の発信をする他の公的機関はエンターテインメント志向にもっと徹して いるからである。

(つづく)

.国際  投稿日:2016/6/6

「ヒラリー神話」もう一度 米大統領選クロニクル その11



 

古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)

「古森義久の内外透視」


アメリカ大統領選では民主党側で当初から本命視されてきたヒラリー・クリントン候補の意外な苦戦が目立つ。全国党大会での指名獲得が確実だとされるとはいえ、なお予備選の最終段階でバーニー・サンダース候補に追いつかれ、接戦が続くのだ。


この争いはいよいよ6月7日の大票田、カリフォルニア州などでの予備選で決着がつくともみられている。だがこの8年前の同じ6月7日は同じ大統領選予備選でバラク・オバマ候補に戦いを挑んだクリントン氏が敗北を公式に認めた日だった。


当時の選挙戦では冒頭で圧倒的な人気を誇っていたクリントン氏は必ずアメリカ初の女性大統領になるという一般の期待から「ヒラリー神話」とまで評さ れていた。その時、この神話が崩れたわけだが、8年後のいま、彼女はいよいよ大統領に向かっての大きな前進を果たすのだろうか。


クリントン候補は今回の一連の予備選では6月5日までに民主党の各州代議員を合計1776人、獲得した。そのほかに予備選枠の外にいる特別代議員計 547人からすでに支持を得たという。その結果、合計2323人、全国党大会での指名に必要な全代議員の過半数2383人にわずか60人足りないことにな る。カリフォルニア州で勝利すれば、その過半数ラインは軽く超えるわけだ。


だが民主党候補では対抗馬のサンダース上院議員がなお果敢に戦いを挑んでいる。意外や意外の健闘を続け、クリントン候補を破った州も多数ある。6月 5日現在のサンダース候補の獲得代議員は合計1547人、そのうち特別代議員は46人に過ぎず、クリントン候補にくらべ、一般の代議員の獲得で善戦してき たことがわかる。サンダース候補はこの獲得代議員の数の差にもかかわらず、なお全国大会まで撤退はせずに、クリントン候補へのチャレンジを続けると宣言し ている。だからクリントン氏はまだまだ安心できないわけだ。


今回の大統領選では各州の予備選はこの6月7日で終わりとなる。その後に予定されるのは首都ワシントンのコロンビア特別区での予備選だけなのだ。今 回の民主党側の指名争いではクリントン候補が各種世論調査での支持率でも、過去の政治歴でも、知名度でも、抜群の強さをみせ、簡単に勝利を確定するとみら れていた。だがサンダース候補の予想外の人気の高さに圧倒されるという場面が何度も起きてしまった。この状況は8年前の選挙戦と似た部分がかなり多いので ある。


2008年6月7日、ヒラリー・クリントン氏はワシントン市内で演説して、「この大統領選から撤退し、バラク・オバマ候補を支援します」と宣言し た。それまで熾烈に戦ってきたオバマ氏との民主党指名獲得の争いでの敗北宣言だった。「ヒラリー大統領」神話の終わりでもあった。


それまでの15年間、国政の中心舞台で常に脚光をあびてきた活力いっぱいの女性政治リーダーの軌跡に区切りをつけた日だった。この区切りは、ビル・クリントン前大統領のその当時の選挙戦での応援の挫折を含めて、一つの時代の終わりをも画していた。 


クリントン候補のこの敗北は同候補の破竹の進撃の軌跡を知る側には信じ難いほどの結末だった。同候補が大統領選への名乗りを正式にあげた2007年 2月ごろ、共和党側でさえ「次期大統領は80%以上の確率でヒラリー夫人となる」(ニュート・ギングリッチ元下院議長)という予測が大多数だった。


なにしろ一連の世論調査では、クリントン候補の支持率50%、オバマ候補同20%というような数字が出ていたのだ。クリントン候補には「無敵」とい う表現が与えられた。「ヒラリーが大統領にならない可能性は考えられない」(ディック・アーミー共和党元下院院内総務)とまで確実視されたから、当時、 「ヒラリー大統領誕生」は現実の決まりのように語られていたのだ。


ところが2008年1月はじめのアイオワ州での党員大会から、この「神話」が少しずつ変わっていった。当初は黒人層でさえ支持が少なかったオバマ候補がアピールを驚異的に広げる一方、クリントン候補は支持を減らしていった。神話の侵食だった。


この過程では「女性だから」という要因はふしぎなほど議論の対象にならず、逆に同候補の女性らしからぬ対決調の姿勢がオバマ候補の癒やし風の柔らかな態度の魅力を急速に拡大していったともいわれた。


そもそもクリントン候補は夫が大統領となった1993年1月からホワイトハウスで事実上の閣僚として機能するという異例の動きをとるとともに、政策面でも超リベラルと呼べる過激な路線を示した。国民皆保険の推進がその出発点だった。


このクリントン政権の8年間、ヒラリー夫人はホワイトウォーター事件など自身の疑惑や醜聞にも巻き込まれたが、傷つかず、2001年にはみごと上院議員に転身した。そしていよいよその7年後に女性として初めて主要政党の大統領候補になる寸前まで飛躍したのだった。


この飛躍自体はアメリカ女性の多くにとって社会での「ガラスの天井」を崩すプラス効果をみせつけたといえる。だがその一方、クリントン候補の「私は 家庭でクッキーを焼いて満足するような女性ではない」というような言葉が女性の幅広い層までを反発させたあたりにも、そのとげとげしい個性が大統領選に複 雑な影を投げたことを示唆していた。


夫のビル氏もクリントン候補を一貫して支援したが、その2人団結しての「クリントン政権」再現への政治活動もついに終幕を迎えたのだった。


以上が「ヒラリー神話」とされた政治大ドラマの終幕だった。それからまた8年、クリントン氏はついに民主党の候補指名を間違いなくつかむのか。6月7日という同じ日についに逆転の現実が起きるのかもしれない。

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